人物情報一覧

TOPに戻る     前に戻る


長宗我部家の人物


長宗我部盛親(1575〜1615)
 元親の4男、初めは吉良姓を名乗っていたらしい。九州征伐の緒戦、戸次川の戦いで兄・信親が戦死したのをうけて、悲しみに暮れる元親は2人の兄を差し置いて当時、若干12歳の千熊丸(盛親)を後継者に指名した。
 奸臣として名高い家老・久武親直の後押しもあり信親のひとり娘を妻とする条件で長宗我部の家督を継いだ。
父の死後、関ケ原の戦いで両軍からの招きを受け、盛親は当初、東軍加担を主張したものの、関東への使者が関所で捕まり、やむなく西軍に加わる。
 主戦場では南宮山麓に着陣するが吉川広家の妨害で戦えないままに敗戦を迎える。
戦後、家康への謝罪のために上坂する際、国許の反乱を恐れて兄・津野親忠を切腹させた為に領国土佐22万石を没収される。
 浪人の身分に落ちた盛親は京都で「大岩祐夢」と名を変えて寺子屋の師匠を営みながら14年間を過ごし、徳川・豊臣の対立が表面化してくると、一計を案じて京都を脱出、土佐国復領を求めて、大坂城に旧臣(総勢、7000人〜8000人)を引きつれて入城する。
 1615年5月6日、大坂夏の陣で家康本陣を側面から攻撃するため、木村重成とともに5000の兵を引きつれ八尾方面に進出、藤堂高虎隊を壊滅状態に追い込んだが、木村隊を破った井伊直孝隊の攻撃で敗れた。
 翌、7日の決戦で北側を守備していた長宗我部軍は敗北を悟って大坂城から落ち延びた。盛親は山城国で蜂須賀家の追っ手に捕らえられて京都市中を引き回された後、慶長20年5月15日六条河原で斬首・獄門に処せられる。享年41歳、墓所・京都蓮光寺。

汝らいずくへも落ちよ。(中略)、我に志しあらば重ねて義兵をあげんを待って来たるべし、もし、我生け捕られたりとも何ぞ謀をめぐらし命全うせん。


長宗我部盛親画像(京都蓮光寺所蔵)


長宗我部元親(1539〜1599)
 国親の嫡男、盛親の父、長浜戸の本の戦いで初陣をかざり「土佐の出来人」と呼ばれる。
 祖父の代からの宿敵本山氏をはじめ、安芸氏を滅ぼして土佐を統一し、次いで阿波、伊予、讃岐に侵攻、三好氏・十河氏・香西氏・西園寺氏・河野氏ら諸氏を降して四国全土を統一した。
四国征伐によって豊臣秀吉に臣従し、九州征伐・関東平定・朝鮮出兵に参加した。
連歌を愛した文化人でもあった。
 しかし、九州征伐で長男・信親を失ってからは、性格が一変し、4男・盛親を溺愛して当主にしようとした結果、これに反対した家臣を殺害するという荒っぽい家督相続事件を起こしている。
 1599年、京都伏見で亡くなった。享年61歳。 


長宗我部国親(1504〜1561)
 兼序の嫡男、盛親の祖父、永正4年(1507年)に本山氏らの連合軍に岡豊城を攻撃された事で肉親を失い、約10年間を幡多郡一条氏の下で過ごす。
 元服して信濃守国親を名乗り、一条氏の助力で旧領を回復すると吉田孝頼と結託して富国強兵に努め、2男親貞を吉良氏、3男親泰を香宗我部氏に養子入りさせるなど勢力拡大を行い、宿敵本山氏との対決のため西方に進出した。
 本山氏を追い詰めて土佐国中央部の大半を収めたが、浦戸城包囲中に病を発し岡豊に戻ったが、手当ての甲斐なく57歳の生涯を閉じた。


吉良親貞(1541〜1576)
 国親の次男で元親の弟、永禄6年(1563年)に吾川郡吉良氏に本山茂辰の跡を継いで養子入りした。父が恩を受けたことから幡多郡一条氏攻略を躊躇する元親に対し、「その罰は私が受けましょう。」と説得したという。
 親貞は高岡郡の蓮池城・戸波城を攻め落とし、一条氏が土佐大津に移動した後は城代として幡多郡一円を支配した。
 しかし、35歳という若さで早世、彼がもう少し長く生きていたら四国統一は数年早まったといわれている。



香宗我部親泰(1543〜1592)
 国親の3男で元親、親貞の弟。香美郡香宗城主・香宗我部親秀の要請によって香宗我部を継ぐ、以降は兄・元親を助けながら参謀として活躍し、安芸氏滅亡後は安芸守を称し、阿波国(徳島県)東南部を治める軍代となった。
 天正8年(1580年)6月には安土城で織田信長と面会して「四国切り取り次第」のお墨付きを受けた。
このように親泰は外交にも手腕を発揮した。
 秀吉の四国征伐では阿波国牛岐城を守備したが、自軍の不利を感じて土佐へ退却した。
 文禄元年(1592年)朝鮮出兵に病死した嫡男・親氏の代わりに出撃する途中、長門国にて病死した。
 元親はこの知らせを聞いて大いに落胆したといわれている。


香宗我部貞親(1591〜1660)
 香宗我部親泰の子。文禄二年に行われた朝鮮の役で父と兄を一度に失い。貞親は三歳にして家督を相続する。補佐にはもとの香宗我部氏である中山田泰吉と、その弟秀政が担った。
 関ヶ原合戦後、長宗我部氏の滅亡により堺に移り住み、後に寺沢広高に仕える。盛親が大坂の陣で豊臣方についたことで寺沢家に迷惑がかかることを嫌い出奔。中原源左衛門と名を変えて浪人となる。
 やがて長宗我部氏の遠縁にあたる春日局の推挙により、寛永十二年頃堀田正盛に仕え、1000石を知行する。
 寛永十五年、老中となった堀田正盛は信州松本城主となる。寛永十九年七月、堀田正盛は下総国佐倉十一万石に加増される。貞親は佐倉城受け取り役となる。
 慶安五年、貞親には子がなかったため高井源三衛門の長男・親重を養子にむかえ香宗我部家を継がせた。万治三年七月、七十歳で死去。
 親重は同年十月堀田家が改易されると、伊達家に仕官した。


長宗我部信親(1565〜1586)
 元親の長男、盛親の兄、幼名千代丸、織田信長から「信」の1字を拝領して弥三郎信親と名乗る。元親に愛され長宗我部家の将来を託されていた。彼の性格について『土佐日記』には「背の高さは6尺1寸(183cm)色白く柔和にして、言葉少なく、礼儀を重んじ、ときに冗談も言うが無作法ではなく、家臣たちを分け隔てなく愛し、父母を大切にした。」と評されている。
 天正10年(1582年)頃、阿波一宮・夷山の2城を奪回し、中富川の戦いに参加した。元親が羽柴秀吉の四国征伐に降ると、天正14年(1586年)九州征伐に際して、父とともに豊後戸次川の戦いに従軍した。
 ここで、四国連合(長宗我部・仙石・十河)軍は島津勢の罠にはまって大敗、父とはぐれた信親は孤軍奮闘の末、力尽きて討ち取られた。享年22歳。


香川親和(1567〜1587)
 元親の次男、盛親の兄、讃岐の有力豪族・香川信景の養子となり、香川家を継ぎ天霧城に入る。
 中富川の戦いが起こると讃岐勢を率いて参戦するなどの戦功があるが、四国征伐の後、讃岐6郡を支配していた香川家は改易されてしまう。
 1585年頃、元親が秀吉と大坂で対面した際、親和は3男親忠と交換で秀吉の人質に出される。
 1586年大和郡山にいた親和は四国への帰国を許されて岡豊城下に居住した。この年の九州征伐で兄・信親が戦死したのをうけて秀吉から「家督相続を認める朱印状」がもたらされたが、元親からの相続に関する沙汰はなく、ただ捨扶持を与えられたに過ぎなかった。
この事を気に病んだ親和は自ら食を断って病死したといわれている。
 親和の墓は一族の墓所には葬られず、岡豊山麓に小さな墓石がひっそりとたたずんでいるのみである。


津野親忠(1571〜1600)
 
元親の3男、盛親の兄、土佐国高岡郡姫野城主、津野勝興の養子となりこの地域を領した。土佐でも有数の良港、須崎に屋敷を構え、人々からは「名君」と呼ばれていた。
 四国征伐後、親和の代わりに秀吉の下へ人質に出され、ここで豊臣家の武将・藤堂高虎と親交を深める。
 長兄・信親の戦死後、まもなく次兄・親和も病死した為、跡継ぎ候補と目されるが、家督は弟・盛親に譲られたことを知り、相続に無関心を装うが元親に危険視されて幽閉された。
 1600年関ヶ原の戦いで盛親率いる長宗我部軍が敗北すると、「家康から親忠に土佐半国が与えられる。」との噂が広まり、警戒感を強めた家老・久武内蔵助親直が盛親を通じて親忠を切腹させた。
 親忠の墓所は香美郡津野神社内にある。


吉良親実1541〜1576
 父は長宗我部元親の弟・左京進親貞で、母は元親の娘。父の跡を継いで吾川郡弘岡の吉良峰城主となるが、のちに高岡郡蓮池城に移った。
 天正14年(1586)秀吉の命令で大仏殿建立用の木材を提供するように言われた元親は材木の伐採搬出の監督に久武内蔵助親直を任命して作業に当たらせていた。このとき親実も現地に出張していたのだが、川岸で出会った親直が礼をしなかったため、怒って弓で親直のかぶっている笠を射落としたことから二人の仲は悪くなった。
 天正16年信親の死により、継嗣問題が長宗我部家に起こると、四男・盛親を跡継ぎにしようとした元親に比江山親興と共に反対し、諫言した。
 だが、親直は元親の意見に賛成して、親実と対立したのである。結局、後継者は盛親と決定したため、元親は親実に切腹を命じた。
 使者として親実の館を訪ねた桑名弥次兵衛によってこの命が伝えられると、親実は小高坂で自刃した。26歳の若さであった。
 死後、親実にまつわる怨霊話が相次いだため、のちに吾川郡木塚に建立された木塚明神に祀られた。


比江山親興不明〜1586
 長宗我部国親の弟・国康の次男と伝えられている。長岡郡比江山城主、兄は戸波親武。
 天正10年(1582年)元親による阿波統一が終了した後、阿波国岩倉城主となる。
しかし、同13年に羽柴秀吉の四国征伐で敗れて、比江山に戻った。
 天正14年、12月に元親の嫡男・信親が豊後国戸次川で戦死したために継嗣問題が起こった。
このとき、盛親が跡を継ぐことに真っ先に反対したのは長宗我部の一族・吉良親実であった。親興もこの意見に賛成して、かさねて、千熊丸継嗣をやめるように元親に諫言したのである。
 会議は結局、元親と久武親直に押し切られる形で千熊丸が跡継ぎに決まり、これに反対した親実や親興は元親から危険視されてしまうことになる。
 会議終了後、親興をはじめとする比江山一族は元親の命を受けた刺客らに、切腹あるいは殺害させられてしまったのである。
 現在、比江山城詰の段に親興を祀る比江山神社が建てられている。


戸波親武(不明)
 父は長宗我部国親の弟・国康、弟は盛親の家督相続の際に反対して元親に処罰された比江山親興である。
 初めは長宗右兵衛(ちょうそ・うひょうえ)と名乗っており、家中でも長宗我部一門として信望が厚かった。永禄12年(1569)幡多郡一条氏に属していた高岡郡の蓮池城攻略のとき、一部の兵が城を逃れて同郡の戸波城に立て籠もったので、親武はこれを追撃し、元亀元年(1570)城を落とすことに成功した。この功により親武が戸波城主に任じられたことから、地名を取って姓を長宗から戸波に変えた。
 その後は元親の四国統一戦争に従軍して活躍し、天正12年(1584)に讃岐国十河城主となり、元親が土佐に帰国した後には城番として監視の任についていた。
 豊臣秀吉の四国征伐では彼を信頼した元親の命により、新たに築かれた植田城守備の任につき、黒田如水、宇喜多秀家らの軍勢と戦った。
 天正17年の検地以前に死去したとされる。息子に戸波親清があった。


福留親政(不明〜1577年)
 名字の福留は福富とも書く、同氏は親政の祖父・房照の代から長宗我部氏に仕えた。
 力量・知略ともに優れていたことから、あらゆる戦いで戦功をあげ元親から21回の感状を与えられた。また、「親」の一字を拝領し親政と名乗り、家紋も長宗我部氏の七鳩酢草(ななつかたばみ)から1つ減じた六鳩酢草を使用した。
 永禄6年(1563)安芸国虎が岡豊城に攻め込んだ際には熊谷伊豆守と共にこれを守り、安芸氏の大軍を追い払った。これは後に「福留の荒切り」とよばれるようになった。
 長岡郡田辺島城および土佐郡秦泉寺城を預けられて長宗我部氏の重臣として重きをなしたが、元親が伊予へ出陣した時に、先陣を務めその途上天正5年(1577)3月9日に戦死した。
 遺体は田辺島山上に葬られたという。


谷 忠澄(不明〜1600年)
 土佐郡一宮の土佐神社の神職についていたが、知力に優れた人物だったことからやがて元親に仕え、滝本寺非有(忠澄の弟といわれる人物)と共に長宗我部氏の外交を担当した。
 天正13年(1585)秀吉による四国征伐の際には、阿波国一宮城を江村親俊と共同して守り、羽柴秀長軍の増田長盛・藤堂高虎らと対峙した。やがて長宗我部軍が各地で敗退し戦闘のゆく末に危機を感じた忠澄は秀長と和睦するよう元親を説得する。当初は怒りに触れて切腹させられそうになったが、ついには忠澄の熱意に元親が折れて和睦が成立した。この結果、長宗我部氏は土佐一国に押し込められるかたちとなった。
 天正14年12月豊後国において行われた戸次川の合戦に参加。戦後、元親の長男信親の遺骸を探すため島津氏への使者となりその遺体を火葬して高野山の奥の院へ遺灰を納めた。さらに、この戦いで犠牲になった土佐兵700人を供養するための石塔婆を建立した。
 のちに幡多郡中村城の城代となり土佐の西側の防衛にあたるが、慶長5年(1600)11月7日長宗我部氏改易と時を同じくして亡くなった。享年67歳。
 谷忠澄は長宗我部一門や三奉行、吉田一族と共に長年にわたって長宗我部氏を支えた功臣といえるのではないだろうか。


東条関兵衛(不明〜1585)
 長宗我部元親に仕える。
 阿波国の東に位置する那賀郡桑野城主であったが、天正3年前後、計略により長宗我部氏に帰順し、以後香宗我部親泰の下で阿波攻略戦の先方を務めた。
 大身の将であり「武道つよき者」といわれていたことから元親の期待を受けたらしく、元親の養女(久武内蔵助の娘)を娶り、譜代の家臣と同等の扱いを受けたとされる。
 天正10年(1582)織田信長の死により後ろ盾を失った三好勢との最終決戦となった中富川の戦いに参加した。四国統一後は豊臣秀吉の四国征伐の危険が迫ったため、阿波における戦闘の最前線のであった木津城の守備を任された。天正13年6月頃に阿波土佐泊に上陸した羽柴秀長・秀次の軍勢は関兵衛の守る木津城を攻略するため砦をつくり対峙した。
 しかし、途中には入海や川があって通行が難しく、城方も砦を築いて守りを固めていたので攻略は容易ではなかったため関兵衛は特に対策を講じなかった。
 2、3日後、秀長の軍勢が押し寄せてきたので、関兵衛は奮戦し損害を与えたが、水源を断たれて水が無くなると城方は苦戦し次々と防衛線を破られた。関兵衛は秀長軍に属していた叔父東条紀伊守の説得にしたがって城を明け渡し、土佐へ引き上げた。
 この際、羽柴勢を土佐に先導したことが元親の怒りを買い、息子の信親に命じて関兵衛を切腹させた。このとき元親の下にいた関兵衛の弟も同時に殺された。


久武親信不明〜1579
 長宗我部元親に仕えた重臣。父は肥後守昌源、弟は親直。久武家は長宗我部三家老家の一つであり、鎌倉時代前後の土佐にやって来た長宗我部氏に従った久武源三の子孫である。
 誠実で思慮のある人物だったので元親の信任を受けた。初めは土佐郡久万、のちに高岡郡佐川の所領を与えられた。
 天正5年(1577)南伊予の軍代に任じられると、さっそく南伊予に進出して河原崎氏をはじめとする宇和・喜多郡の城主を降伏させた。
 天正7年になると、元親から「万事そちに任せるゆえ、何も我に相談するな!」と言われて南伊予攻略を一任されるようになった。親信は自分の麾下の軍勢と幡多郡の兵7000人を率いて宇和郡の岡本・大森城を攻撃した。
 しかし、複雑で慣れない地形だったために思うように指揮がとれず、逆に土居勢の鉄砲隊の不意打ちを受けて長宗我部軍は大敗を喫し、大将・親信もこのときの銃弾に倒れてしまったのである。
 親信の遺言は「弟に自分の跡を継がすな」であったが、結局、これが守られる事はなかった。


吉田重俊不明
長岡郡吉田城主・吉田周孝の弟で、国親・元親の2代に仕えた。
兄に勝るとも劣らない智謀に優れた武人で、天文年間の長岡郡大津城攻撃では国親の先手の将として奮戦し、元親の土佐統一戦でも軍功をたてた。
 永禄初年、香美郡上夜須城主となり、東の安芸氏の動きを警戒していた。あるとき、安芸国虎の属城であった安芸群馬ノ上城の番士が夜中に夜須領へ侵入して畑を荒らしていたことが分かり、紛争へと発展した。このとき重俊の子・重康は敵の不意をついて馬ノ上城を占領し番士を捕らえるという行動に出たので、長宗我部氏と安芸氏の間に争いが起こった。
 永禄6年(1563)国虎が岡豊城を攻撃すると重俊は手勢を率いて救援に駆けつけた。おかげで、岡豊城に攻め込んだ安芸勢は福留親政と吉田重俊・重康父子の活躍によって敗走を余儀なくされてしまったのである。
 同12年7月、元親が安芸国虎討伐の兵をあげると、安芸方の武将を勧誘して次々と寝返らせて、安芸軍を内部崩壊させた。
 国虎が自害した後、安芸家の重臣・黒岩越前に元親が仕官を勧めた際、重俊は彼が主君に殉じることを見抜き、横田三郎左衛門を同行させ、越前が切腹する時の介錯をするように命じた。
 その後も元親の土佐統一戦および四国統一戦に従軍して功を立てた。


江村親家(不明)
 土佐国長岡郡吉田領主、吉田備後守重俊の次男だったが、江村領主、江村備後守親政の養子となり、その娘を妻に迎えた。
親政と同じく備後守を称したが、実父・重俊も「備後守」だったので、家中で親家は小備後、重俊は大備後と呼ばれた。
 長宗我部国親と元親の2代に仕え、天文18年(1549)山田基通(元義)との戦いをはじめとする幾多の合戦に参加して、武勇を轟かせた。
 天正年間に病没、子に親俊がいる。
 『夏草の賦』では、一条兼定に拝謁するために中村を訪れた元親の正室・菜々を護衛する役目を仰せつかり、智勇に優れた活躍ぶりを見せている。


江村親俊(生没年不明)
 長岡郡の江村領主、江村備後守親家の子、兄には吉田重康がいる。
 江村氏は長宗我部氏の流れをくむ家柄であったが、祖父・親政のとき、吉田重俊の次男であった親家を養子に迎えた。
 長宗我部元親に仕えて、天正13年(1585)羽柴秀吉による四国征伐が行われると、阿波国一宮城の北側本丸を守備し、羽柴秀長軍の増田長盛や蜂須賀正勝ら主力部隊と対峙する。阿波国内の諸城が次々落城していくなかでも谷忠澄と共によく城を守った。
 同年、秀吉に降伏した元親は三男の津野親忠を人質に出すことになり、親俊は比江山親興と共にこれに従い伏見に赴く。
 だが、翌年には江村に帰り、その後、朝鮮の役では文禄の出兵で晋州城攻撃に参加して戦功を挙げる。
 病のため慶長の初め頃に死去したと伝えられる。


吉田孝頼(不明)
 土佐長岡郡江村郷、吉田城主。弟に吉田重俊、子に貞重があり、先祖は藤原秀郷と伝えられる。武勇と智謀を兼ね備えた名将であったため、長岡郡岡豊城主の長宗我部国親に誘われて、共に戦うようになった。
 後に国親の妹を妻にむかえて一門衆に加わると、国親の片腕として謀略、戦闘等で大いに活躍した。
 大永六年(1526)ごろ、国親の娘が香宗我部親秀の子・秀義に嫁ぐはずだったにもかかわらず、本山氏との講和を優先するあまり、約束を反故にして本山茂辰に嫁がせてしまうという出来事があった。当然、約束を破られた香宗我部親秀は面目を失ったと激怒して両家の関係は悪化し、危うく長宗我部打倒の兵を挙げそうになったが、国親と孝頼は剃髪して法体になった後、親秀に謝罪したので、どうにか事態を収拾することができた。さらに、この出来事によって本山氏と香宗我部氏との微妙な温度差をつくりだし、やがて対立させることに成功したのだった。
 国親の死後は元親に仕え、吾川郡長浜・木塚の戦いで功を立て、土佐郡井口城を与えられた。
 永禄年間に病死したといわれている。享年不詳。


吉田貞重(不明)
 備中守孝頼の子。長宗我部元親に仕え、後に重臣となる。永禄12年(1569)の安芸国虎攻めの時父とともに参加したが、敵に目を突かれてしまう。これほどの重傷を負ったにもかかわらず、貞重は敵の槍を奪い取って、これを倒したという。
 片目を失った貞重には、いつしか「せんの次郎左衛門」とあだ名されるようになった。これは、彼が囲碁の名手であったことから、碁を始める際には先手の者が一目から始めるところからきていたという。また、貞重は優れた博学の才を持ち、特に天文に通じていた。
 天正16年(1588)元親が岡豊城より大高坂(現、高知)城へ居城を移転した際、彼はこのように言った。「此山必ず国守の居城となり、一国の府として繁昌すべし」(『土佐物語』)
 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の後、長宗我部氏が除国されると遺臣たちによる浦戸一揆が起こり貞重は一揆および、その原因となった盛親の兄殺しの両方を非難して浦戸開城を進言した。その後、保科家に250石で召抱えられた。


宿毛甚左衛門(不明)
 宿毛甚左衛門はその昔、野田姓を名乗っており、さらにその前には長宗姓を名乗っていた。
宿毛姓で呼ばれるようになったのは、盛親が生まれた年でもある天正3年(1575)に起こった渡川の合戦(長宗我部元親VS一条兼定)の後に、幡多郡・宿毛に所領を与えられてからのことである。
野田氏は長宗我部氏の一族で、7代当主・兼光の弟・俊吉の子孫であるため、若い頃には本家・長宗我部氏から頭の2字をとって長宗姓を称したと考えられる。
 長宗我部氏に仕えてからは、土佐および四国統一戦争に参加し、幡多郡・宿毛に封ぜられてからは土佐の西の守りを固めていた。
 元親が死に際して盛親に残した遺言にもあるように、有能な弟達亡き後の長宗我部氏において甚左衛門は「頼れる、数少ない一門衆」と見られていたようである。
 ところが、そんな甚左衛門も、関ヶ原の合戦で長宗我部氏が改易されると伊勢・藤堂家に招かれて1500石で召抱えられることになるのである。


池頼定(不明〜1593)
 細川宗桃(定輔)の次男で土佐国長岡郡池城主。
 長宗我部国親の勢力拡大を恐れた頼定は降伏を考えたが家臣に押しとどめられていたという。それは家中の岩松経重という重臣が長宗我部氏の侵攻を許さなかったからであった。
 国親は家臣の中島大和守に命じて岩松を討たせると、ただちに池城に攻め込んだ。頼定は子の四郎左衛門頼和に国親の娘を娶わせることで和睦し、以後池氏は長宗我部氏に服属するようになった。
 しかし、やがて頼和と妻との間が悪くなると、頼和は元親に謀反の疑いをかけられて自刃を命じられている。


盛親と戦った人物(敵も含む)

毛利勝永(不明〜1615)
 豊前守。豊前小倉城主・毛利壱岐守勝信の子。
 秀吉の死後の慶長5年(1605)から始まった関ヶ原の合戦で、父・勝信は西軍を率いていた石田三成と仲が良かったため西軍に加わることを決意し、三成の要請で小倉に戻ることになった。このため父に代わり伏見城攻めに加わったのが息子の勝永であった。その後、関ヶ原では毛利秀元の傘下に組して南宮山に布陣したが、秀元勢は全く動く気配を見せなかった。南宮山方面での大将格である毛利軍内部に東軍と通じていた者がいたため、この方面に布陣していた軍勢は全く身動きが取れず、西軍が敗れた要因の一つとなってしまったのである。毛利勢は前もって東軍に内通していたため直接の攻撃は受けなかったが、戦わずに敗れたことは武士として屈辱であっただろう。同じ毛利の姓を持つ人々によって敗れた勝永はこの時どんな気持ちだったのだろうか。
 関ヶ原の戦いの数日後には豊前国小倉にいた父も黒田氏に敗れてしまった。その後毛利父子は加藤清正に預けられたが、かねてより親交があったとされる山内一豊に引き取られることになった。山内氏は囚われの身の毛利父子を自由にし、破格の待遇で迎えた。
 やがて慶長16年(1611)5月7日勝永の父・勝信が土佐の配所にて死去した。
 3年後の慶長19年、大坂城の大野治長らは徳川家康との戦いを決意し、豊臣秀頼の命令として全国の諸大名に加勢を求め始めたのであった。しかし、これに応じて大坂にやってくる大名は1人もおらず、大坂方は戦力確保のために各地の浪人たちにも誘いをかけるようになった。勝永のもとにも秀頼の使者がよこされ、加勢するよう求められたのである。父の代から豊臣家譜代の家臣の家に生まれた勝永はこれを旧恩に報いる機会と思って喜んだ。
 だが、現在の彼の身分は山内家お預かりの浪人であり、やすやすと大坂に行ける状態ではなかった。勝永は密かに自分を監視していた藩主の父を訪ねてこう告げた。「藩主が若い頃、私と彼は衆道(男色)の誓いを交わし、お互いに助け合っていこうと約束したことがある。彼は今回の戦いに出陣していったが不安なので、私も後を追って彼の後見を務めたい。その代わり妻と2人の息子の命をお預けします。」この話を聞くと彼は勝永の申し出を許すとともに、妻と子は勝永の旧臣である山内四郎兵衛に監視させることにした。こうして、まんまとだまして出発の機会を得た勝永は四郎兵衛と共謀して嫡男・勝家を連れ出すと浦戸から船で大坂へと向かっていったのである。

 大坂城に入った勝永は真田幸村・長宗我部盛親・後藤又兵衛・明石全登とともに五人衆の1人に数えられた。
冬の陣での勝永は二の丸西側を5000の兵で守っていたが、真田丸に攻撃が集中した上、すぐに和睦が成立したためほとんど戦闘をせずに終わってしまった。
 慶長20年(1615)4月6日、講和の条件として惣掘・二の丸・三の丸の堀をすべて埋められて無防備となった大坂城に対し、家康は再び攻撃を命じた。
 勝永は幸村と同じ2軍に編成されて天王寺口に陣を敷き、一方の幸村は天王寺口の西側にある茶臼山に陣を張った。
 窮地を脱するために、毛利・真田・後藤の3人は家康本陣への夜襲を計画したが、事実上の主将である大野治長はこの期に及んでも徳川方との和睦を考えていたため、この夜襲作戦は彼の反対によって実現することはなかった。やむなく後藤・毛利・真田の3部隊によるによる待ち伏せ作戦に切り替え、徳川軍を攻撃することにした。3人は秀頼の恩に報いるために命をかけて戦おうと誓い合い、訣別の杯を酌み交わしたと伝えられている。
 勝永、幸村が指揮する1万2000人は後藤軍の後に続くはずだったが、河内平野が深い霧に包まれていたために大幅に遅れてしまった。勝永隊3000人がようやく藤井寺までやってきた時には、後藤軍のほとんどが壊滅状態になっていたのである。しかも、真田隊はいまだ霧に迷っているのか、なかなか戦場に現れず、孤立した毛利隊は多数の敵に取り囲まれされそうになってしまう。
 包囲された毛利隊の兵士たちは動揺したが勝永は彼らを制してじっと勝機を待つことにした。それが功を奏したのか、まもなく真田幸村隊が到着し、毛利隊は全滅を免れることができたのである。
 誉田の戦いは西軍1万5000、東軍3万5000の戦いで
豊臣方が不利であったが、真田幸村隊の奮闘により戦いは西軍に優勢となり、東軍の足止めは成功するかに思われた、するとそこへ秀頼の使いが若江の戦いの敗戦を伝え、勝永たちの撤退を命じたのであった。
 そこで殿を引き受け、見事役目を果たしたのが勝永であった。

 明けて慶長20年(1615)5月7日、誉田から戻った勝永は大坂城へは戻らず、天王寺の陣へ帰っていた。やがて毛利隊と対峙した本多忠朝の軍勢の発砲によって最後の決戦が始まった。すると毛利隊は瞬く間に本多隊に襲い掛かりこれを撃破してしまったという。忠朝の首は昨日の戦いで殿を勤めた雨森伝右衛門によって討ち取られた。こうした戦いの様子を見ていた黒田長政は豊臣方の中でひときわ見事な戦いをしている部隊を見つけ、横にいた加藤嘉明に、あれは誰の部隊か?と尋ねた。すると嘉明はこう答えた「貴殿はまだご存じなかったのか。彼こそは毛利壱岐守が一子豊前守勝永でござる」これを聞いた長政は「そうだったのか。この頃まで、まだ子供のように思っていたのに・・・・・・さてもさても」といって感じ入ったと伝えられている。それほどに勝永の活躍が目を見張るものだったということだろう。
 そんな父に劣らず活躍していたのが、息子の勝家であった。隊長として1部隊を率いていた勝家は、いまだ16歳の若者であり、この日の戦いが初陣であったという。敵の鎧武者と渡り合って首を取った彼はうれしそうに父の元へその首を持っていった、勝永は「見事見事」と喜んだが「今日は最後の戦いだから首を持ってきても戦功にならない、打ち捨てなさい」と付け加えた。再び戦場へ戻っていく息子を見ながら勝永はこうつぶやいたとされる「惜しい若者だ」と。
 毛利隊はその後も奮戦し、地中に埋めた
埋め火(爆薬)を爆発させての敵の撹乱、真田幸村とともに家康の本陣へ切り込むなどの働きを見せている。やがて幸村の死が伝えられると、勝永は秀頼の身を案じて大坂城へ戻ることにした。残兵をまとめて整然と城に戻っていく毛利隊を見て、武将たちは舌を巻いて感嘆した。
 翌5月8日、本丸・天守閣を失った大坂城の中、わずかに焼け残った物櫓内に豊臣秀頼・淀殿、そして勝永の姿があった。徳川方による銃撃を受けた後、秀頼を介錯したのは勝永だといわれており、彼自身も息子とともに腹を切って果てたという。


吉田内匠不明〜1615
 長宗我部盛親の家老を務める。大坂の陣が始まると入城して長宗我部隊に組した。
 慶長20年(1615)5月6日の八尾・若江の戦いでは長宗我部勢の斥候として約2000人を率いて前進した。戦場に立ち込めていた霧が晴れてくると藤堂高虎隊と遭遇する事になり、盛親からの撤退命令が到着する前に戦闘が始まってしまった。
 鉄砲を持っていなかった斥候隊は、藤堂高吉・式部らの部隊の突入を防ぎきれず、後戻りができなかったためである。
 吉田内匠は高塚地蔵堂の陰に潜み、藤堂式部を待ち構えていたが、逆に式部の手によって討ち取られたという。
 


吉田政重(1566〜不明)
 俊政の子で、吉田備後守重俊の曽孫、祖父は伊賀介重康。
 安芸郡和食で生まれた政重は、成長すると身長6尺2寸(186cm)で腕力に秀でていたといわれている。
 その後、長宗我部元親に仕えて天正9年(1581)の中富川の合戦に参加、15歳で初陣を飾る。以後、大坂夏の陣までの34年間のあいだに数多くの合戦に馳せ参じ、合計で115の首を上げ、全身に受けた傷は21ヶ所にのぼったという。朝鮮出兵の際には晋州(現、韓国南部の都市)で敵将・朴好仁を捕らえ、また、突然姿をあらわした猛虎を退治した等、その勇猛な武者ぶりを見せつけた。
 関ヶ原の合戦でも伊勢国、安濃津城攻撃に参加したが、主戦場で西軍が破れ、長宗我部氏が土佐を没収されて滅亡すると、仕官の道がなく浪人となった。
 慶長19年(1614)大坂冬の陣が始まると長宗我部盛親に従って戦場を駆け巡ったが、翌年、夏の陣で大坂城が落城すると土佐に帰り、安芸郡安田に居住しながら医者となって過ごしたといわれている。


吉田康俊(1565〜1634)
 左衛門佐孝俊の子で吉田重俊の曽孫。長宗我部元親・盛親の2代に仕えた。
 上夜須・新庄・甲浦の諸城をめぐったのち、天正7年(1579)15歳のとき阿波で起こった戦いに参加する。康俊はこの戦いの際に敵に腕を斬られて負傷するが、ひるむことなく戦い続けて味方の危機を救う一幕まであったという。
 その後も同10年8月の中富川の合戦を皮切りに、13年の四国征伐(阿波・
山城を守備)、14年(1586)12月九州・戸次川の戦いに参加、朝鮮への第1回目出兵となる文禄の役に参加など、土佐統一後の行われた長宗我部氏の主要な戦いのほとんどに参加し、その武勇を余すとこなく発揮している。
 元親の死後は盛親に仕え、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に参加。この戦いで主戦場から最も離れた場所に陣を張っていた長宗我部隊は情報に乏しかったので、康俊(重年)は戦況を調査して盛親に伝えたといわれている。
 関ヶ原の後に長宗我部氏が改易されると浪人となったが、やがて土佐の新国主・山内氏に仕えた。
 大坂冬の陣が慶長19年(1614)に始まり、盛親が大坂城に入城すると康俊も山内家を出奔して大坂に入り、盛親に従った。
 戦後は松平忠明(家康の長女の子)に仕えて、その所領である姫路に移り、この地で没した。


桑名弥次兵衛(不明〜1615)
 桑名丹後守の弟・藤蔵人の養子となり、桑名姓を名乗る。
 長宗我部元親に仕えて四国統一戦争に従軍、戦功を挙げる。後に幡多郡中村城代となり、天正14年(1586)12月九州征伐の緒戦、豊後国戸次川の戦いに出陣、敗走する元親に付き添い襲いかかってきた土豪らの襲撃を避けて見事土佐へ撤退させた。
 戸次川の合戦で長宗我部信親が戦死したのをうけて、2年後、継嗣問題がおこると盛親相続に反対して切腹を申し付けられた吉良親実の屋敷に検使として赴き、その死を見届けた。
 関ヶ原の合戦後、長宗我部氏が改易となり盛親が捕らわれの身となると、一領具足たちは主家存続を求めて浦戸城に立て籠もった。このとき弥次兵衛は彼らに「自分たちの首領になってほしい」と頼まれ、浦戸城内にあったが、実は東軍に内通していたので東軍の開城命令に素直に従い、浦戸城を明け渡した。
 その後しばらく浪人するが、やがて伊勢藤堂家に2千石で仕官し、京で暮らしている旧主・盛親のために少ない俸禄の中から仕送りを続けた。
 慶長20年(1615年)大坂夏の陣のとき藤堂高虎勢は河内国八尾において長宗我部盛親隊と衝突する。弥次兵衛は藤堂仁右衛門、同勘解由、山岡兵部らと共に盛親の本陣へ攻め寄せたが、長宗我部勢の猛烈な反撃にあって敗走し、元同僚の近藤長兵衛に陣前で討ち取られた。


盛親に関わりのある人物


増田長盛(1545〜1615
 
盛親の烏帽子親、天文14年、尾張国中島郡増田村に生まれた。一説には近江国の浅井郡益田郷ともいわれている。羽柴秀吉に200石で仕え、天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いに従軍、その功で2万石に加増された。 翌年、従五位下右衛門尉に叙せられ、以後は豊臣政権下で知行雑務・東国政策など各分野で奉行職を務める一方で、関東平定、小田原攻めに参加した。盛親が元服したのが1588年の10月である事からこの頃に烏帽子親を引き受けたと思われる。
 文禄元年(1592)に秀吉の朝鮮出兵が始まると、玉薬や兵糧輸送を担当し、同年6月朝鮮半島に渡海して漢城(ソウル)に布陣した。
 講和条約が成立すると明国の使者の接待役を務め、文禄3年に羽柴秀保のあとをうけて大和郡山城20万石を与えられる。この間も近江、常陸、安房の検地を行っていた。
 慶長2年に豊臣秀吉が世を去ると、浅野長政・石田三成・長束正家・前田玄以とともに五奉行の一人に数えられて五大老と共同で政務を執った。
 1600年に関ヶ原の戦いが起こると西軍の一員として大坂城にて、豊臣秀頼の補佐の任に当たるが、西軍の情報をひそかに徳川家康に流していた。戦後、そのことが咎められたのか、大和郡山20万石の所領を没収されてしまった。金銀を家康に献上したことから命は救われ、高野山に追放され、後に武蔵国岩槻の高力忠房に預けられる。
 大坂の陣が勃発すると家康から「間者(スパイ)として大坂城に潜り込め」という命令を受けたが、敢然と断った。
 夏の陣に息子の盛次が大坂城に入城して長宗我部隊に組したため責任を取らされて切腹させられた。


高力忠房1584〜1655
 天正12年遠江国浜松に生まれる。父は土佐守正長、母は本多忠俊の娘、正室は真田信之の娘。
 高力氏の先祖・熊谷次郎直実は高望王(平 高望)の後胤を称しており、直実より5代後の真鎮は足利尊氏とともに六波羅攻めに加わり、戦功を立てた。忠房より4代前の重長の代に高力姓を名乗るようになったという。
 慶長4年6月、徳川秀忠に謁見した際に元服し、「忠」の一字を賜って忠長と名乗る。このとき16歳で父の遺領を受け継ぐ、関ヶ原の合戦では東軍に加わり、秀忠に随って信濃国上田城攻めに参加、丸子城の乱を鎮圧する。
 のちに
長宗我部盛親烏帽子親・増田長盛その子・盛次を預けられる。(預かったのは前代の清長ともいわれている)
 慶長19年正月に大久保忠隣が所領没収になると、安藤重信・本多忠朝らと相模国へ赴いて小田原城を接収した。
 同年10月に始まった大坂冬の陣には徳川秀忠に属し、翌年の夏の陣には土井利勝に組して、鳥居成次とともに大坂方による奈良への放火を食い止める。5月7日大坂城に突入して24の首を取る。その功により元和5年9月武蔵国岩槻から遠江国浜松、のちに肥前国島原城4万石を賜った。
 明暦元年12月11日、参勤の帰途、領国へ戻る途中に京都で亡くなった。享年72歳。


毛利秀元(1579〜1650)
 天正7年(1579)11月7日、備中猿掛城(岡山県小田郡矢掛町)に生まれる。幼名は宮松丸。
父は毛利元就の4男・穂井田元清、母は来島通康の娘。
 宮松丸は6歳のとき、当主である毛利輝元の養子となり、天正18年元服して秀元と名乗った。
 長らく跡継ぎに恵まれなかった輝元の養子となったことで、秀元は毛利家の正式な後継者として広く知られるようになる。文禄元年(1592)2月、輝元が朝鮮出兵のために出陣する際には系図を譲られ、同4月には豊臣秀吉より毛利家の正式な跡継ぎと認められた。
 文禄2年3月ごろからは、病の輝元に代わって朝鮮に渡り、文禄と慶長の両方の戦いで指揮をとった。
 同4年には秀吉の養女(豊臣秀長の娘・慶長14年に死亡)と結婚したが、同じ年の10月には輝元に実子・松寿丸(のちの秀就)が誕生したために跡継ぎの立場を辞して分家し、慶長4年6月から長門国と周防国の一部あわせて18万石余りを与えられて山口に移った。
 関ヶ原の戦いには西軍の総大将・毛利輝元の代わりに本体を率いて参加。安濃津城攻めで
長宗我部盛親らと行動を共にした。主戦場となった関ヶ原では東側に位置する南宮山に陣を置いて戦いに備えていたが、吉川広家・福原広俊らが東軍に内通していたため動けず、同じく毛利一門の小早川秀秋の寝返りにより戦わずして敗れた。
 戦後、長門国豊浦および厚狭の両郡内に3万6000石を与えられ長府藩の初代藩主となる。大坂冬夏両陣ではいずれも徳川方についた。
 晩年は藩主・秀就の政治を補佐するかたわら、茶道や和歌に才を見せて有名となった。秀元は茶匠・古田織部の高弟となっていた過去があったため、寛永2年には徳川家光の御噺の衆に加えられて茶を点じ、求められれば和歌を詠んでいたという。
 慶安3年(1650)10月3日72歳で亡くなる。
 法名智門寺功山玄誉、江戸芝高輪泉岳寺(東京都港区高輪2丁目)に葬られた。


井伊直政(1561〜1602)
 永禄4年2月19日遠江国引佐郡祝田村(静岡県引佐郡細江村)に生まれる。
徳川四天王のひとり、父・直親、母は奥山親朝の女。同5年父が謗りにより今川氏真に殺され本領井伊谷を奪われたので諸国を流浪していた。
 天正3年、15歳のとき浜松で徳川家康に仕え井伊谷の地を与えられた。
永禄10年6月本能寺の変の際に家康が伊賀越で帰国した時も、ともに非難をしのぎ、翌7月家康が甲州を治めた際、武田の遺臣らを多く招きいれる活動を行い、同10月には徳川・北条の講和にも参画。この功により後に「井伊の赤揃え」と恐れられる、武田遺臣団を家康の意向もあり多く召抱えた。
 永禄12年に小牧・長久手の戦い、13年には信濃上田の真田昌幸攻撃に参加し、14年、豊臣秀吉が家康の上洛を促すため母大政所を岡崎まで遣わした時は、本多重次と共に大政所を送って大坂に至り、秀吉に謁見した。
16年4月、聚楽第行幸の時、家康の共をして従五位侍従となった。
 同18年小田原征伐にも転戦して活躍し、家康の関東入国とともに上野箕輪城(群馬県群馬郡箕郷町)12万石を与えられた。
 同19年陸奥の一揆の鎮定のために蒲生氏郷に加勢し、文禄元年(1592)朝鮮の役には江戸留守居役をつとめ、城の普請を行なった。
 慶長3年(1598)箕輪から城を和田に移し、高崎と名付けた。
同5年関ヶ原の合戦では本多忠勝とともに東海道方面諸軍の監軍となり、3600人の軍勢を従えて主戦場に布陣、松平忠吉軍と行動を共にする。追い詰められて退却する島津義弘軍を追撃して、島津豊久を討ち取ったが、その時に鉄砲により腕を負傷してしまう。
 しかし、その後も石田三成の本拠近江佐和山城の攻略に参加し、毛利輝元の降伏の斡旋や長宗我部盛親の土佐一国の受け取りにも功を立て、佐和山城18万石を与えられたが、このことが彼の死を早めた。慶長6年従四位下に進んだが、関ヶ原の戦傷と激務がもとで同7年2月1日に彦根で没した。
 遺体は彦根の清涼寺に葬られた、法号清涼泰安祥寿院。
 自他共に厳しい性格であったらしく、怠ける部下を容赦なく切って捨てたため、人々は彼の下で働くことを嫌がったという。


土井利勝(1573〜1644)
 徳川家康の家臣・土井利昌の子。一説には水野信元の子とも、家康自身の子供とも言われている。母は葉佐田則勝の娘。
 天正元年(1573)遠江国浜松に生まれる。
 幼少の頃から家康の側に仕えており、天正7年秀忠誕生にともなって、その側近となった。天正19年に知行1000石を与えられる。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前後には徳川秀忠に従って使番を勤める。会津に向かった後下野小山に至り、信濃国上田城攻めに参加、諸軍に秀忠の命令を伝える。
 関ヶ原の合戦の後500石を加増され、同7年12月には下総国小見川で1万石を領する。
 慶長10年秀忠の参内に供奉して従五位下大炊助に叙任され、同17年下総国佐倉に城を築き4万5000石を領する。
 大坂の陣には冬夏両方に参加し、秀忠の陣にてさまざまな軍議に関わる。戦後、捕らえられた
長宗我部盛親に井伊直孝・安藤重信らと共に対面し、盛親の申し分を聞いている。
 元和2年(1616)に家康が世を去ると秀忠の側近の中で最も力を持つようになる。同9年、再び秀忠の参内に付き添った功により大炊頭に任じられ、寛永3年(1626)には従四位下侍従に叙任。明正天皇が同7年に即位すると秀忠の使者として上洛する。
 3代将軍・家光の代になっても重用され、下総国古河(こが)で16万石余りを与えられた。
 正保元年(1644)7月10日江戸屋敷で亡くなり、芝増上寺に葬られた。享年72歳。


安藤重信(1557〜1621)
 弘治3年(1557)三河に生まれ、天正12年(1584)徳川家康に従い小牧・長久手の戦いに参加、戦功を挙げる。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦には家康の息子・秀忠の軍に属して信濃国上田城攻めに参加したが、真田軍の抵抗に手を焼き、関ヶ原での決戦に遅れてしまう。
 慶長16年ごろから徳川幕府の加判の列に加わるようになり、しだいに重んじられる。また、下総国香取郡と結城郡の中から1万石の所領を与えられた。
 慶長19年(1614)大坂冬の陣には徳川方に組し、戦いで功を挙げたほか、講和後も大坂に残り堀の埋め立て監督を勤めている。翌年に行われた夏の陣にも従軍して戦い、大坂落城後は井伊直孝らと共に豊臣家の処分を担当する。山城国八幡の葦原で捕らえられた
長宗我部盛親の取り調べにも立ち会い、その功によりこの年、所領を2万石加増された。
 元和5年に安芸国広島城主・福島正則が改易されると、これについての沙汰を行うため広島に赴き、上野国高崎に5万6000石を与えられた。
 元和7年6月29日、65歳で死去。法名、大誉良善栖岸院。遺体は江戸麹町の長福寺(後に栖岸院)に葬られた。


TOPに戻る


inserted by FC2 system