TOPに戻る   人物情報に戻る



長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか) 生没年 1575〜1615 通称 右衛門太郎 官位 侍従・宮内少輔・土佐守


 元親の4男、初めは吉良姓を名乗っていたといわれる。九州征伐の緒戦、戸次川の戦いで兄・信親が戦死したのをうけて、悲しみに暮れる元親は2人の兄を差し置いて当時、若干12歳の千熊丸(盛親)を後継者に指名した。
 
奸臣として名高い家老・久武親直の後押しもあり信親のひとり娘を妻とする条件で長宗我部の家督を継いだ。
父の死後、関ケ原の戦いで両軍からの招きを受け、盛親は当初、東軍加担を主張したものの、関東への使者が関所で捕
まり、やむなく西軍に加わる。
 主戦場では南宮山麓に着陣するが吉川広家の妨害で戦えないままに敗戦を迎える。
戦後、家康への謝罪のために上坂する際、国許の反乱を恐れて兄・津野親忠を切腹させた為に領国土佐22万石を没収
される。
 
浪人の身分に落ちた盛親は京都で「大岩祐夢」と名を変えて寺子屋の師匠を営みながら14年間を過ごし、徳川・豊臣の対立が表面化してくると、一計を案じて京都を脱出、土佐国復領を求めて、大坂城に旧臣(総勢、7000人〜8000人)を引きつれて入城する。
 
1615年5月6日、大坂夏の陣で家康本陣を側面から攻撃するため、木村重成とともに5000の兵を引きつれ八尾方面に進出、藤堂高虎隊を壊滅状態に追い込んだが、木村隊を破った井伊直孝隊の攻撃で敗れた。
 翌、7日の決戦で北側を守備していた長宗我部軍は敗北を悟って大坂城から落ち延びた。盛親は山城国で蜂須賀家の追っ手に捕らえられて京都市中を引き回された後、慶長20年5月15日六条河原で斬首・獄門に処せられる。享年41歳
、墓所・京都蓮光寺。

盛親「汝らいずくへも落ちよ。(中略)、我に志しあらば重ねて義兵をあげんを待って来たるべし、もし、我生け捕られたりとも何ぞ謀をめぐらし命全うせん」


長宗我部盛親像(京都蓮光寺蔵)

inserted by FC2 system