土佐写真館

岡豊城跡長宗我部元親銅像若宮八幡宮香川親和の墓所津野神社元親初陣の碑
岡豊八幡宮秦神社吉良親実慰霊碑一領具足の碑


高知城(大高坂城跡)
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 高知城の歴史は南北朝時代にさかのぼる。当時この地域を治めていた大高坂氏は南朝方に属し、ここに城(戦国時代でいう砦)を築いて北朝方の軍勢と争っていた。
 戦国時代に入り長宗我部氏が土佐中央部での勢力を拡大してくると、同じく土佐中央部をねらっていた本山氏と激しく争うようになった。高知城はその過程で長宗我部氏の支配下に入る。
 しばらくは省みられることがなかった高知城の名が、再び姿を見せたのは豊臣秀吉の時代となりつつあった天正14年のことである。この年に行われた九州征伐の緒戦で長男を失った長宗我部元親は、落ち込んだ家内の雰囲気を一新し、さらに土佐国主としてふさわしい居城を造ることにした。このとき候補に選ばれたのが高知城(大高坂山)であった。その理由はいくつかあるが、土佐国平野部のほぼ中央に位置し、目の前の土佐湾から堺をはじめとする全国への海上交通が可能という点でこれまでの居城より優れており、城を築くにはもってこいの場所だったからである。
 しかし、海に近いために大高坂山周辺は大きな川が流れていて、たびたび水害がおこっていた。元親もこの水害に悩まされ、最終的には築城を断念することになった。城、城下町、通りは造りかけのまま残され、元親は天正19年にさらに南の浦戸に築城してそこに移った。
 長宗我部氏が関ヶ原の戦いの後に滅亡すると、遠江国掛川城主から土佐の新たな国主となった山内一豊が入国し再び大高坂山に城を建てることにした。一豊は川の流れを変える大規模な治水工事を行い、近くの山を切り崩して大高坂山に盛り土をした上で、ようやく建物を造り始めた。すべてが完成したのは2代藩主・忠義の時代であったという。
 高知城は初代・一豊から代々山内氏の居城となり明治維新を迎えた。途中、享保12年(1727)の大火でほとんどの建物が焼失してしまう災難に見舞われたが、10年後には今日見られる天守閣が復元された。
 地名は時代と共に変化し、大高坂山→河中山→河内山城→高智(高知)城となっている。


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岡豊城跡
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 岡豊城は岡豊山の山全体に造られていた中世の山城で、四国を統一した戦国大名・長宗我部元親の居城として知られている。
 山頂にある詰の段(写真の場所)からは眼下に香長平野が広がり、その中央には古くから栄えていたことを示すように土佐国分寺跡がはっきり確認できました。
 この城がいつごろ造られたかは定かではないが、長宗我部氏が土佐国長岡郡にやってきた鎌倉時代から室町時代の間だったのではないかと考えられる。その後、永正5〜6年(1508〜1509)元親の祖父・兼序(かねつぐ)の時代に一度落城したが、兼序の子・国親の手によって再興され、さらに元親に受け継がれながら
70年余りの間土佐統一および四国統一の本拠地として活躍した。
 現在は発掘調査で発見された建物の礎石が復元されているほか石垣、石段、土塁、堀切、井戸跡があります。この写真は山頂(詰の段)にあったといわれている小規模な天守(櫓)の跡を写したもので、中央の木のかげに見える複数の石が復元された礎石になります。
 このほか歴史民俗資料館や岡豊城の周辺には屋敷跡や長宗我部氏代々の墓、香川親和の墓所、岡豊八幡宮など長宗我部に由来する場所や遺品が残っており、天正16年(1588)頃に元親が大高坂城(高知城)に移るまでの間、この地が長宗我部氏の重要な拠点であったことがうかがえる。



長宗我部元親銅像(若宮八幡宮内)
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若宮八幡宮


香川親和の墓所
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津野神社(津野親忠の墓所)


元親初陣の碑


岡豊(別宮)八幡宮


秦神社


吉良親実慰霊碑
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一領具足の碑と六体地蔵尊
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