千熊丸誕生

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  長宗我部盛親像(蓮光寺所蔵)

長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)は土佐国の長岡郡、

岡豊の地で長宗我部元親の4男として1575年頃に生を受け、

幼名を千熊丸といった。

母は明智光秀の重臣、

斉藤利三の娘で土佐の人間が美濃の女性を嫁にもらうことは、

今日では交通機関が発達しているので、

それほど珍しいことではないが、

身近な政略結婚が当たり前だった当時としては一大事であった。
千熊丸が生まれた頃には、

父・元親は土佐を統一を果たし、

また、織田をはじめ、

他の大名家と連絡を取るようになるなど、

長宗我部氏は四国の中でも有力な大名家となりつつあった時期である。
 最初に書いたように4人兄弟の末っ子だった千熊丸は、

長宗我部家を相続する立場にはなく、

しばらくすると次男、

そして3男と2人の兄が続けざまに他家(香川家・津野家)に養子に出され、

千熊丸も同じように、吉良家に入った。

この頃の事はよく分かっていないが、

いずれにしても、

このまま何も無ければ千熊丸も2人の兄同様、

長宗我部氏の1武将で生涯を終えていたはずであったが、

1586年、

九州征伐の緒戦で長男・信親が戦死すると、

そんな千熊丸の人生に転機が訪れた。

次男・親和には豊臣秀吉からの朱印状がもたらされ、

3男・親忠は賢いと評判だったのにも関わらず、

元親は若い4男・千熊丸を溺愛し

「盛親(千熊丸)以外に子は居ない!」

とまで言って家督を譲ろうとしたのである。
 元親のこうした考えを知った親和は気の病にかかって他界し、

親忠は「自分は家督を継ぐことに興味は無い。」と無関心を装ったが、

慶長4年には元親に危険視されて香美郡岩村に幽閉されてしまうのである。

そんなある日、

元親は城に家臣を集めると、

千熊丸と信親の娘を結婚させて嫡流の血を残した上で家督を相続する考えを伝えた。

元親の意志が固いことを知って久武や中内ら家老衆は様子をうかがって特に発言をしなかったため、

会議の流れは千熊丸相続に傾きつつあった。

ところが、

そこに元親の甥で一門の吉良親実と比江山親興が進み出て千熊丸の家督相続に反対し、

「信親が亡き今となっては次男(一説ではすでに病死したと言われる。)か、もしくは3男を世継ぎにするのが筋である。

4男の千熊丸と信親の娘を結婚させたところでそのことに変わりはない!」

と諫言した。

元親はこれを聞くと険しい形相をしながら席を立って出て行ってしまった。

なんとしても千熊丸に家を継がせたかった元親は吉良・比江山の両名および、

その一族を処罰するように命じ、

吉良親実と比江山親興は切腹させられ、

その関係者もことごとく討たれた。

人々は犠牲者を「7人のみさき」として恐れ、

以後、土佐で怨霊話が相次いだ。


千熊丸相続の障害を取り去った元親はさっそく使者を出して、

豊臣家5奉行の1人増田長盛に烏帽子親を依頼した。

長盛から「盛」の1字をもらって千熊丸を元服させ、

朝廷より従五位下侍従に任じられると右衛門太郎盛親と名乗るようになる。

元親は長宗我部氏次期当主を内外に公表した。
 晴れて長宗我部の世継ぎとなった盛親は元親とともに関東平定や朝鮮出兵に参加し、

豊臣秀吉に忠誠を尽くした。

ところが慶長3年(1598)天下統一を成し遂げた太閤秀吉は63歳でこの世を去り、

翌年には元親が病を発して伏見の屋敷で亡くなってしまうのである。

享年61歳、諡は「雪蹊恕山」。


 
長宗我部家にとっての不幸は元親の死がこの時期であったことである。

秀吉死後、豊臣家の武断派と文治派の対立が激化して豊臣家臣団の分裂が生まれ、

筆頭大老、徳川家康の力が増し始めた。

他の大名家は次の天下人が誰なのかを見極めようとしているにもかかわらず、

正式に長宗我部氏当主となった盛親は元親の葬儀等の雑務に追われて天下の情勢を正確にとらえきれなかった。
 慶長5年(1600)盛親の元に東西両軍から味方に加わるように促す内容の書状が届いた。

盛親はどちらに付くべきか重臣たちを集めて話し合った。

重臣の中からは、

元親が豊臣家に忠誠を尽くしてきたことから三成方に付くべきという意見があるものの、

明確な理由はなかった。

盛親は、

過去に長宗我部家が小牧・長久手の戦いの際に家康と同盟を結んでおり、

秀吉包囲網の一員として共に戦ったことから家康方に付くことを選び、

重臣たちもこれに同意したので、

長宗我部家は東軍に味方する方針を決めた。
 

さっそく、使者を江戸に派遣した盛親は軍備を整えて1600の軍勢で大坂に到着する。

ところが江戸に向かわせた使者が途中で、

西軍の長束正家の設けた関所を通れず、

引き返してきてしまった。

東軍との連絡手段を失った長宗我部勢はやむなく西軍に加担することとなった。

このとき盛親は

「こうなったら、運任せだ!」

と言ったといわれている。

無念の関ヶ原に続く


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