無念の関ヶ原
西軍加担を決めた盛親は緒戦で、
伏見城と安濃津城攻めに加わった。
西軍の圧倒的多数の軍勢によって両城は落城したものの、
敵の抵抗もすさまじく、長宗我部軍も名のある武将を多数失ってしまった。
慶長5年9月14日深夜、
関ヶ原での決戦を前に南宮山の東に布陣した長宗我部軍は大垣城より出陣する味方のためにかがり火を焚いて暗夜の行軍を助けた。
このおかげで西軍の主力は無事に主戦場に到着できたのである。
翌15日、
午前8時ついに天下を二分する関ヶ原の合戦が始まった。
西軍は石田三成勢6000人に加え宇喜多秀家、島津義弘、大谷吉継ら総勢8万数千人、
東軍は徳川家康勢2万人をはじめ福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、井伊直政ら7万数千人である。
西軍の長宗我部盛親は6600人の軍勢を率いて毛利秀元、安国寺恵瓊、長束正家、吉川広家らの諸勢とともに南宮山に布陣していた。
関ヶ原参陣武将一覧
武将名 | 所属 | 兵力(1500人未満は省略) | 領国(1000の位は省略) |
徳川家康 | 東軍 | 約2万人 | 武蔵江戸250万石 |
宇喜多秀家・明石全登 | 西軍 | 1万7000人 | 備前岡山57万石 |
小早川秀秋 | 西軍→東軍 | 1万5000人 | 筑前名島35万石 |
毛利秀元(輝元の代理)・毛利勝信 | 西軍 | 1万3000人 | (輝元)広島120万石 |
長宗我部盛親 | 西軍 | 6600人 | 土佐浦戸22万石 |
浅野幸長 | 東軍 | 6500人 | 甲斐府中16万石 |
石田三成・島左近 | 西軍 | 6000人 | 近江佐和山19万石 |
小西行長 | 西軍 | 6000人 | 肥後宇土20万石 |
福島正則 | 東軍 | 6000人 | 尾張清洲20万石 |
黒田長政・後藤又兵衛 | 東軍 | 5400人 | 豊前中津18万石 |
細川忠興 | 東軍 | 5000人 | 丹後宮津18万石 |
池田輝政 | 東軍 | 4500人 | 三河吉田15万石 |
大谷吉継・吉勝・木下頼継 | 西軍 | 4100人 | 越前敦賀5万石 |
井伊直政 | 東軍 | 3600人 | 武蔵高崎12万石 |
加藤嘉明 | 東軍 | 3000人 | 伊予松前10万石 |
吉川広家 | 西軍(傍観) | 3000人 | 毛利秀元と同じ |
京極高知 | 東軍 | 3000人 | ? |
田中吉政 | 東軍 | 3000人 | 三河岡崎10万石 |
松平忠吉 | 東軍 | 3000人 | 武蔵忍10万石 |
筒井定次 | 東軍 | 2800人 | 伊賀上野20万石 |
藤堂高虎 | 東軍 | 2500人 | 伊予板島8万石 |
寺沢広高 | 東軍 | 2400人 | 筑前唐津8万石 |
小川祐忠 | 西軍→東軍 | 2000人 | 伊予今治7万石 |
山内一豊 | 東軍 | 2000人 | 遠江掛川6万石 |
豊臣黄母衣衆 | 西軍 | 2000人 | ? |
安国寺恵瓊 | 西軍 | 1800人 | 伊予、伊予の内6万石 |
生駒一正 | 東軍 | 1800人 | 讃岐高松15万石 |
島津義弘・豊久 | 西軍 | 1500人 | 薩摩鹿児島57万石 |
長束正家 | 西軍 | 1500人 | 近江水口5万石 |
しかし、中央での激しい戦闘とは裏腹に南宮山の周囲はほとんど戦闘がなかったのである。
毛利軍の先陣、吉川広家が東軍に通じており、
再三の出馬要請にもかかわらず、
「今、弁当を食べているので出陣できない。」
と言って他の隊の出撃を妨害していたためであった。
毛利家はまだしも、
巻き添えを食った長宗我部をはじめ長束、安国寺にはいい迷惑と言わざるを得ないのである。
盛親自身もやむなく加わった西軍に対して特別なこだわりがなかったのだろうか、
小荷駄隊など逃亡の邪魔になる部隊は先に伊勢方面へ退却させていた。
南宮山での戦いが始まらないうちに中央では重大な局面を迎えていた。
戦闘が始まって4時間が過ぎても戦闘は一進一退を繰り返しており、
南宮山の毛利勢が動かない以上は松尾山に陣を張っている小早川秀秋軍の動きに勝敗の帰趨がかかっていたのである。
そのため小早川の陣には両軍から加勢を乞う使者が来ていたが、
当主、秀秋はこの期に及んでもどちらに味方するかを決めかねており、
家康の脅しでようやく東軍加勢を決めたのであった(東軍加勢は既に固まっていた。との異説あり)。
小早川をはじめ脇坂、赤座、朽木、小川ら2万に近い裏切り軍は大谷吉継隊に攻めかかった。
多勢に無勢ながら大谷軍は3度にわたってこれを退けたがやがて力尽き敗走した。
大谷、宇喜多、小西ら諸勢は総崩れとなったことで石田三成は伊吹山へ逃れ、
取り残された島津隊は壮絶な敵中突破の末、
退却して、中央での戦いは終結した。
西軍総崩れを斥候から聞いた盛親はただちに退却を命じたが、
勢いに乗った池田輝政・浅野幸長らの軍勢の追撃に遭い多大な損害を出しながら離脱に成功した。
ところが途中で関ヶ原に急行中の徳永軍と遭遇してしまい長宗我部隊は80騎あまりを失って退却したのである。
ようやく大坂に到着した頃には、
城は既に東軍の手に落ちていたので。
盛親は井伊直政を通じて家康に謝罪することにし、
2人の家臣を残して土佐に戻った。