不屈に生きた秦盛親

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関ヶ原の合戦で南宮山麓に布陣した長宗我部盛親軍 『関ヶ原陣図屏風』より(福岡市博物館所蔵)


 堤防に長宗我部勢が布陣しているのを見た藤堂勢は警戒したが、

動きが無かったため一気に押しつぶそうと突撃を開始した。

盛親は藤堂勢が間近に迫って来たときに

「起て!」

と叫んだ。

盛親の号令に長宗我部勢は一気に堤防を上り槍をもって襲いかかった。

油断していた藤堂勢先鋒はたちまち総崩れとなり大将・藤堂高刑らは瞬く間に討ち取られてしまった。

長宗我部旧臣・桑名弥次兵衛も盛親の陣前で元同僚たちに討ち取られた。
 両軍の死闘は昼ごろまで続けられた。

藤堂勢は名のある武将の多くを失い、

形勢は長宗我部勢が優勢のまま進んでいた。

もうじき藤堂勢が敗走しそうなときに予想もしない出来事が起こった。

若江の木村重成が井伊家の家老に討ち取られてしまったのである。

井伊直孝軍は木村勢を破った勢いで長宗我部隊に向かってきた。

すでに藤堂勢との戦いで疲れ果てていた部隊は井伊勢に太刀打ちできず、

久宝寺村で反撃を試みるがこれも突破されてしまう、

さらに、追撃のさなかに増田盛次が討ち死にしてしまった。

盛次は盛親の烏帽子親で豊臣5奉行の1人増田長盛の息子であり、義兄弟でもあった。

夏の陣になってから入城し盛親の部隊に属していたのである。

こうして盛親は藤堂勢を壊滅寸前に追い込みながらも、

戦いに敗れ、撤退を余儀なくされてしまったのである。


 命からがら大坂城に戻った長宗我部隊は盛親を含め、

わずか数名程度になっていた。

城の者に戦いはどうだったかと聞かれると盛親は


「ご覧の通りでござる・・・」

と答えたといわれている。

大坂方はこの日の戦いで後藤又兵衛をはじめ木村重成、薄田隼人などの武将を失った上、

長宗我部軍も戦力の大部分を失い、

決戦に寄与できなくなっていたのである。

真田幸村、毛利勝永、大野兄弟、七手組頭らの軍勢が健在とはいえ、

戦況は豊臣方に絶望的な状態になっていったのである。

慶長20年5月7日、

戦国時代最後の合戦となる大坂夏の陣もようやく終わろうとしていた、

すでに大坂城は15万の関東勢によって二重三重に取り囲まれており、

大坂方がどれほど奮戦しようとも勝利を収める可能性は極めて低い状況であった。
 この日、決戦に出られない盛親に与えられた役目は大坂城の北にある京橋口の守備であったが、

すでに、恩賞(土佐)がもらえる見込みがなくなった戦いに、

御家再興を願う長宗我部軍が組する意味はなくなっていた。

盛親は再起をかけて大坂を脱出することをすでに決めており、

家臣を集めてこのように言っていた。

「汝ら、どこへでも落ちのびろ、この城ではもう功を立てられないから私も逃げ延びる。私に志あれば再び兵を挙げる、もし、生け捕られたとしても謀をめぐらして生き残る。」
 

長宗我部軍は再び盛親が挙兵するのを信じてここに解散した。

そして、

これが歴史上長宗我部軍最後のいくさとなったのである。


 大坂城を脱出した盛親は京都を目指して逃亡を続けた。

しかし、途中で腹が減り、

家臣が大坂城内でもらった金(小判か竹流し金)で餅を買おうとしたところ、

店主に怪しまれて通報され、

山城八幡の芦原に潜んでいた盛親は蜂須賀軍の追っ手に捕らえられてしまう。
 連行された盛親は落人武将の見せしめとして二条城門外の柵に縛り付けられた。

言い伝えでは、

このとき出された食事があまりにもみすぼらしかったので盛親が落胆していたところ、

通りかかった井伊直孝が、

すぐに美膳に変えさせたことや雨の中で濡れていた盛親を見た島津家久が笠をかぶせたといわれている。

引見の際、

徳川秀忠に今回の戦いで功があった東軍武将は誰かと尋ねられた盛親は真っ先に井伊直孝を挙げ、

大坂方が負けたのは自分が彼に負けた結果であると言い加えた。

ある時、柵に縛り付けられた姿を嘲る者に対して盛親は、

「右の手と命があれば、采配を振い軍勢を率いて東将軍(徳川家康・秀忠)をこのような姿にできる!」 

と言い放ち、

捕らえられてなお衰えぬ不屈の精神を持っていたのである。
 あくまで土佐を取り戻したい盛親はひたすら生きることに執着を見せるようになり、

出家するとまで言うようになった。

しかし、盛親が御家再興のために再び兵を挙げることは間違いないと思っていた家康はこれを許さず、

斬首の刑を申し渡した。

敗軍の将である盛親は武士として切腹することも叶わず、

罪人として死をむかえるしかなかった。
 長宗我部氏再興を志して大坂入城を果たしてから半年余りが経った慶長20年5月21日、

かつて浪人生活を送った京都の市中を罪人として引き回された盛親は六条河原で斬首された。

四国の英雄、

長宗我部元親の子として生をうけ、

一族を滅ぼして大名となり、

関ヶ原の後はひたすら土佐回復のために生きた41年間の生涯であった。

さらに、盛親の5人の息子もそれぞれ殺害され、

盛親につながる後継者の血筋は完全に途絶えてしまったのである(娘の血筋が生き残ったとの異説あり)。

首は三条河原で獄門にかけられ、

体は打ち捨てられていたが、

当時の蓮光寺住職が引き取りを願い出て許され、

同所に葬られた。


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