飽くなき土佐への想い

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 1614年秋、

長宗我部盛親は5000人余りの軍勢を引き連れて大坂城に入城を果たした。

今でこそ、ただの浪人にすぎない盛親だが、

期待していた豊臣恩顧の大名が誰一人として入城しなかった豊臣家にとっては元大名の肩書きを持ち、

かつ、四国の覇者・元親の息子がやって来たということには少なからず歓喜をもって迎えたに違いないのである。
 秀頼の呼びかけで大坂城に集まった浪人は盛親をはじめ
真田幸村毛利勝永後藤又兵衛明石全登といった元大名の子供や重臣など、

いずれも関ヶ原の合戦以後に浪人していた者ばかりであった。

それぞれの心中には徳川家に恨みを持つ者、

豊臣家に忠節を尽くす者、

盛親のように戦いに勝利して豊臣家から恩賞を得たい者など様々であった。

大坂参陣浪人(一部のみ)

武将名 関ヶ原以前の経歴
長宗我部盛親 土佐国浦戸城22万石の大名
真田幸村 信濃国上田城主・真田昌幸の子
毛利勝永 豊前国小倉城主・毛利勝信(吉成)の子
後藤又兵衛 黒田長政の家臣、筑前国大隈1万6000石
明石全登 宇喜多秀家の家老、保木城3万3000石
大谷吉治 越前国敦賀城5万石・大谷吉継の子
御宿勘兵衛 結城秀康の家臣、1万石
塙団右衛門 加藤嘉明の家臣

 「大坂城五人衆」の1人となった盛親だったが、

城内での身分は「豊臣家に雇われた浪人」であり、

重要な意思決定には参加できず、

すべての指揮は淀殿、

大野治長ら豊臣家の人間に握られていたのである。
慶長19年(1614)10月には大坂冬の陣が始まったものの、

八丁目口を守備する長宗我部勢は一部が真田丸に入って奮戦した以外に活躍の場がなく、

あっさりと講和条約が成立してしまい何もせず終結した。

八丁目口は大坂城の最も南にあり大規模な攻防戦が繰り広げられることが予想されたが、

実際は真田丸に敵の攻撃が集中、

これを防いだ真田幸村の名ばかりが上がってしまった事に、

盛親の心中は複雑でだったのではないだろうか。
 冬の陣の講和条約によって大坂城の堀の大部分が埋められると、

東西の緊張は日に日に強くなっていった。

家康は豊臣家に謀反の疑いがあるとして、
「国替えか?浪人の追放か?どちらかを選べ!」
と強く迫ってくるようになったのである。

盛親を含めた「大坂五人衆」はいずれも、

城を出れば幕府によって命を狙われるのは確実であった。

かといって、太閤秀吉の権威にすがる淀殿が秀吉の権威の象徴である大坂城から出て行くわけもなく、

大坂方は無謀と知りつつも、再び戦う道を選ばざる負えなかったのである。
 大坂夏の陣は1615年4月頃から散発的な戦闘が始まった。

堺や大和郡山城を焼き討ちを行ったが、

東軍の主力が到着すると、

堀を埋められて籠城が困難な大坂方は大坂城南に主力を集結させて東軍を迎え討つことにした。

長宗我部盛親は豊臣家の武将・木村重成とともに八尾・若江方面に進出し、

東軍を攻撃する準備を整えていた。

盛親の軍勢は黒柄蔓の旗指物をさした見事な軍容だったと伝えられている。

霧の中、

八尾に進出した5300人の長宗我部勢は道明寺を目指して進軍する藤堂高虎の部隊5000人と遭遇する。

高虎は、兄・親忠と親交が深かったことから、

親忠が亡くなると家康に盛親を成敗するように進言し、

おかげで盛親は土佐を奪われ、

浪人生活を強いられることになったその原因を作った張本人が彼である。

だが、高虎の配下には長宗我部氏の遺臣たちの多く仕えていた。

浪人暮らしの旧主・盛親に自分の俸禄から仕送りし続けた桑名弥次兵衛も藤堂軍に属しており、

盛親としては高虎自体は憎いものの、

旧家臣がいる藤堂軍との戦いはできれば避けたいと思っていたはずである。

しかし、それを知らない長宗我部勢の家臣たちは彼らを旧主に弓引く裏切り者と見ており、

われ先に彼らの首を取ろうとしていたのであった長宗我部氏改易が招いた悲劇であった。
 高虎勢の出現に盛親は先行させていた吉田内匠隊を呼び戻そうとしていたが、

すでに高虎隊が間近に迫っていたため合流できないまま戦いが始まってしまった。

やがて吉田内匠隊が破られると、

勢いに乗った藤堂勢は盛親本隊を目指して進撃を始めた。

盛親は馬に乗っている者たちを下ろさせると、

堤防に折り敷かせてこう言った

「わが命令なく顔上げるものは切り捨てるぞ!」

そうしている間に藤堂勢がやってきた。


 

不屈に生きた秦盛親に続く


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