長宗我部氏の成立

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[長宗我部氏の興り]
 長宗我部(チョウソカベ)氏
は戦国時代(室町時代末期〜安土桃山時代)にかけて活躍した、

四国地方、土佐国(高知県)の大名家で、

最も有名な21代目元親(モトチカ)は四国の統一(異説もある)を成し遂げ、

また、分国法「長宗我部元親百ヶ条」等を制定した事でも知られている。
 そんな歴史を持つ長宗我部氏は古代帰化人の末裔で、

元は秦氏を名乗っていた。

先祖は秦の始皇帝であると伝えられている。

始皇帝12世の孫功満王が仲哀朝、

融通王が応仁朝にそれぞれ帰化し、

仁徳朝のころ普洞王が波多姓を賜った。

それら、のちの子孫たちが秦氏を称したとされる。

推古朝の時代には秦河勝が山城国葛野を領し、

後に信濃国を与えられた。


[土佐入国と滅亡]
 時代が進んで、

平安末期から鎌倉時代初期にかけて秦氏は信濃から土佐へ移ったものと考えられる。

土佐国に入国した秦能俊は長岡郡宗部郷に居住し、

地名を取って始めは宗我部氏を名乗ったが、

香美郡にも同じ名の宗我部氏がいたので、

お互い郡の名をとって長宗我部氏・香宗我部氏と区別するようになったという。

宗部郷は土佐国内でも豊かな穀倉地帯であり、

古くは国府もここに置かれていた。

長宗我部氏はその経済力を背景に発展し、

やがて長岡郡岡豊に移った。

南北朝時代になると細川氏に属して足利方に味方した。

その時の功により長宗我部氏11代信能は大?の地頭職に、

その子兼能は吸江庵寺奉行に任じられた。

しかし、永正4年(1507年)細川政元が暗殺されて細川氏が衰退し始めると、

土佐国中の豪族たちが独自に行動を起こし始めた。

かねてより長宗我部領である土佐中央部に野心を抱いていた本山氏当主・梅慶は吉良氏、大平氏、山田氏と連合して岡豊城を攻撃した。

長宗我部氏当主・兼序は長男千雄丸を逃がすと、

妻子ともども自害して長宗我部氏はここで一旦滅亡することになった。


[長宗我部氏の戦国時代]
 家臣に連れられて岡豊を脱出した千雄丸は、

やがて幡多郡にたどり着き、

土佐の名家一条氏の下で10数年過ごした後、

元服して信濃守国親と名乗った。

長宗我部旧領は一条氏の力添えで国親の手に戻り、

国親は江村郷の吉田孝頼と結託して富国強兵に努めると、

宿敵本山氏との対決に備えた。
 一条氏の仲介で一時は姻戚関係を結んで和解した長宗我部氏と本山氏だったが、

両家の積年の恨みは消えず、

天文16年(1547年頃)になると長宗我部氏は軍事行動を活発化させた。

手始めに香美郡の山田氏を攻め滅ぼした国親は、

西へ向かい、

本山氏の支城を次々と落城させた。

永禄3年(1560年)長浜戸の本の戦いで本山梅慶の子茂辰と戦った。

この戦いで初陣を飾った嫡男・元親はめざましい戦いぶりを見せ、

人々は元親を「土佐の出来人」と称えるようになった。

これよりしばらく後に、

国親が病を発して没すると、

元親が長宗我部家を継いだ。

元親は「一領具足」と呼ばれる農兵(普段は農業をし、戦いのときは武器を持って戦う下級武士)軍団を採用するなど、

知略と武勇を駆使して本山氏を追い詰め、

翌年には土佐郡(現在の高知周辺)を手に入れ、

永禄7年(1564年)には、ついに本山氏を滅ぼした。

蘇我赤兄の末裔を称し、

東部地方に勢力を誇っていた安芸国虎はこれに危機感を強め、

西部の一条氏との姻戚関係を利用して中央で勢力を伸ばしてきた長宗我部氏を挟み撃ちにしようと戦いを挑んできたが、

元親の謀略によって裏切り者が続出し本城・安芸城は陥落、

国虎は自害して安芸氏は滅亡した。

最後に土佐に残った一条氏は元親の父・国親がご恩を受け、

また、地元の信仰の厚い家柄であるため長宗我部氏としても直接攻め込むことができなかった。

悩んだ元親は当主・兼定が放埓な性格であることに目をつけ盛んに噂を流し、

兼定が諫言をした重臣を手打ちにすると他の重臣たちにクーデターを起こさせた。

兼定は重臣たちによって隠居させられ、

息子の内政が一条氏を継ぐと、

元親は内政を岡豊の南・大津に移し中村には弟・吉良親貞を駐屯させた。

これによって土佐一条氏の領地は長宗我部氏の支配下に入ることとなり、

守護・細川氏が去って以来、

群雄割拠していた土佐国はようやく元親によって統一された。

[阿波出兵]
 ようやく土佐一国を統一することが出来た元親は、

次なる目的を四国統一に向けていくようになる。

元々、土佐は古代よりの流刑国であった為に平氏・源氏を含めた貴族や武士の末裔が数多く土着していた。

こうした事から中央に復帰したいという気持ちがあり、

四国統一にもさしたる抵抗はなかったと思われるが、

流刑国である為に他国と隔絶され、険しい山々によって往来もままならなかった。

しかも土佐の軍が他国に攻め入ったのは今回が初めてであった。

このような理由から、

阿波進出をためらっていた元親のもとに、

末弟・島親益が湯治へ向かう途中の船上で南阿波・海部城主の兵に討たれたという知らせがもたらされた。
弟を失った元親はただちに阿波攻略を決意し、

長宗我部氏が四国統一への第一歩を踏み出すことになったのである。

元親、阿波統一へに続く


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