長宗我部氏、四国を統一

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[新軍代、久武親直]
 元親は天正12年秋、

不在となっていた南伊予軍代に親信の弟・親直を任命して伊予侵攻を本格化させた。

元親は親信からの遺言で、
「戦場に出るのだから、もとより死ぬ覚悟は出来ている。もし、自分が死んだとしても弟・彦七(親直)だけには跡を継がせないでほしい。弟は御家の害となっても、役に立つことはない。」
と言っていたのだが、

ほかに適任者がいなかったのか、

元親は伊予軍代に親直を任命したのだった。

しかし、実際に親直を使ってみると、

そんな前評判とは大違いの働きぶりであった。

南伊予攻略を開始した親直は順調に攻め上り、

同年10月には2万人の軍勢で同地の名族である西園寺氏の本城・黒瀬城を陥落させ、

南伊予を支配下におさめたのである。

[四国統一と新たなる戦い]
 南伊予を奪われた河野氏は毛利氏に援軍を要請して抵抗を続けたが、

長引く戦乱で国力が疲弊した河野氏は天正13年(1585の)春についに降伏した。

土佐の小豪族から身を起こして10数年、

元親はようやく四国統一を成し遂げた。

また、同時に長宗我部氏始まって以来の幸福絶頂の瞬間であった。
しかし、この喜びも数ヶ月で終わりを迎えた。

同年6月、

秀吉は四国討伐の軍令を発し、

弟・秀長を総大将に任命して10万の大軍をもって四国に攻め込んできたのである。

元親は圧倒的に不利にもかかわらず断固として戦い抜く気であった、

しかし、秀吉軍との戦いがいかに無益かを谷忠澄に説得されてようやく降伏する決意を固めたのである。

[元親、秀吉に尽くす]
 秀吉から土佐一国を安堵された元親は数々の戦いに参加して秀吉に尽くしたので、

秀吉から強く信頼されるようになっていった。

その後の長宗我部氏も豊臣政権下の大名家として大きく変化し、

発展していったのである。 

四国を見下ろす、長宗我部元親の像(若宮八幡宮内)


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