伊予・讃岐戦線
[戦いの経過]
長宗我部氏による阿波統一時の四国は下の図の通りであった。
元親は阿波侵攻と同時に南伊予にも兵を出しており、
軍代として任命されたのが信頼の厚い久武親信(親直の兄)であった。
また阿波の北部の兵の一部を讃岐攻略に向けていたのである。
讃岐での戦闘には、
西部を領していた諸豪族と東部を領していた三好(十河)氏との戦いがあり、
元親は西部の豪族達の中でも、
反三好の立場をとっている者を寝返らせた。
特に、有力豪族の香川氏には次男・親和を養子に入れるなどの方法を使って戦いを有利に進め、
讃岐西部での優勢を確実なものにした。
[伊予での苦戦]
しかし、讃岐での優勢とは裏腹に南伊予での戦闘は苦戦を強いられていた。
天正7年長宗我部軍は土居氏が治める岡本城に攻め込んだが、
慣れない地形に身動きがとれず、逆に土居軍の反撃によって、
軍代・久武親信が戦死し、
撤退を余儀なくされたのである。
南伊予の戦いで長宗我部軍が苦戦した背景には中国地方の毛利氏の存在があった。
土佐を統一した時点で元親は織田氏の他に毛利氏にも四国統一の了解を得ていたが、
毛利家も織田家と同様に長宗我部氏の勢力拡大を危険視するようになっていたのである。
そのため毛利氏は伊予の河野氏を援助して長宗我部氏の四国統一を阻止しようとしたのだった。
[讃岐統一]
讃岐での長宗我部軍は中央部の豪族たちを次々と降参させ、
阿波から逃れてきた十河(三好)氏との戦いに移りつつあった。
元親は3万ともいわれる軍勢を率いてたびたび十河氏を攻めるが、
羽柴秀吉が十河氏救援のために軍勢を派遣してきた事もあり、
攻略は容易ではなかった。
天正11年春、
再び阿波から讃岐に侵攻した長宗我部軍は引田浦に上陸した仙石秀久軍に奇襲をかけて、
秀久軍を敗走させると、
本拠地、十河城を攻撃した。
十河存保は城を捨てて逃亡し、
元親による讃岐の統一がようやく終了したのである。
[中央での睨み合い]
早速、十河が降伏したことを香宗我部親泰を通じて織田信雄に報告した。
ちょうどこの頃、
中央では小牧・長久手の戦いの真っ最中であり、
羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄が対峙していたのである。
元親は家康から出陣を要請されたが国内の不安から出陣することができなかった。
ようやく準備を整えた頃にはすでに秀吉と信雄・家康が和睦した後で、
長宗我部氏の近畿進出はかなわなかった。
これを最後に天下をめぐる群雄割拠の戦いは完全に終結し、
羽柴秀吉による天下統一の事業が開始されたのである。