長宗我部家の暗雲
[久武親直と吉良親実の対立]
天正14年(1586)春、降伏した元親に対し、
秀吉は土佐国内の材木を切り出して送るように命じた。
京都東山の仏光寺および方広寺に大仏殿を建立するためである。
この命令は土佐以外にも出され信濃や紀伊からも材木が集められた。
元親はなんとか長宗我部家を生き残らせようと懸命になっており「大名小名以下百姓」といった土佐国内のあらゆる人々を残らず使って秀吉の期待に応えようとした。
元親自身も息子の信親をつれて山に分け入り、
より良い木を探していたと伝えられる。
そんな中、ある事件が起こっていた。
長宗我部氏家老・久武内蔵助(くらのすけ)親直はこのとき切り出した木材をいかだに組み、
川に流して輸送するという任務を務めていた。
そこを長宗我部氏の一族で元親の義理の息子でもあった吉良左京進(さきょうのしん)親実が通りかかり仕事中の親直と出会った。
本来ならば、主筋の親実に親直は挨拶をするべきところであったが、
「自分は主君(元親)から命じられてこの仕事をしているのだから、仕事の妨げになることはやめよう。」と考えたのか、
それとも本当に気がつかなかったのか?実際のところはわからないが、
親直は挨拶をせず、
怒った親実は持っていた矢を引き(この時親実は狩に出かけていたため頭巾をかぶり、弓を携帯していた)親直のかぶっていた笠をめがけて放った。
矢は親直の笠の少し上を射抜いたが、
それでも気がつかない様子であったため、
再び弓を引いて笠を射抜いた。
それでようやく親直は気づいた様子であったが、
改めて挨拶をすることもなく家来に命じて射抜かれた笠を届けさせただけであったという。
こうした親直の行動からは、例え主君の一族であっても、
主君の命で動いている自分のほうが偉いと考える主君を最も重視する性格を見ることができる。
実際に元親の親直への評価はどうだったかというと、
かなり高かったと言える(親直の兄の親信への想いも混じっていたかもしれないが)。
四国統一戦で南伊予を攻撃した親直は、
”軍代”という地位を与えられた上に4万石ほどの領地を切り取るほどの活躍を見せ、
元親を喜ばせたと思われる。
一方で親実は元親の親族ではあったが7千石ほどの知行しかもっておらず戦での働きも親直と比べれば見劣りした。
領地の広さからいっても親直の方が上であった。
このため親直が親実を無視したというのも自然なことかもしれないが、
元親の一族にもかかわらず無視され見下された親実としては面白くないのは当然である。
以前から両者の仲は悪かったようであるが、
この日を境に二人の対立はさらに激しくなり、
元親の後継者争いでも盛親以外を推す親実と、
盛親を推す親直、
という大きな争いの種を家中に蒔くことになってしまったのである。
[大友宗麟の大坂訪問]
豊後国の国主であった大友宗麟は急速に力を増して北上してくる島津氏の侵攻にたいし秀吉に救援を求める目的で自ら大坂に向かった。
ここで宗麟は秀吉から盛大なもてなしを受け、
建設中の大坂城を案内されたことで秀吉のスケールの大きさと途方もない経済力を目の当たりにする。
それまでは秀吉を形ばかりの関白で氏素性も明らかでない成り上がり者の男ぐらいにしか思っていた宗麟は、
一転して秀吉に天下人の器量があると判断して、
彼に救援を求め、
かわりに毛利氏と和睦し、
高橋紹運と立花宗茂を秀吉のもとに仕えさせることを申し出た、
秀吉はこの要請を受け入れて四国に軍を送ることを約束したのである。
[九州平定への危惧]
四国征伐で秀吉に敗れた長宗我部氏は彼の家臣としての信頼を得るため、
九州へ向かうことになったが、
元親はこの出兵に不安を感じていた。
今回は戦いの経験もない若干22歳の信親が海を越えて九州に出陣するという。
心配でたまらない元親は息子の戦勝祈願のため自らも信仰が深い若宮八幡へ参拝を行ったが、
その際にこともあろうに軍旗が鳥居に引っかかり地に倒れるという出来事があった。
人々はこれを「不吉の前触れ」として恐れた。
元親はこの鳥居をただちに破壊したが不安をぬぐいきれず、
結局、自らも九州に同行することにしたのである。
こうした急な出陣命令が出た背景には先に書いた通り長宗我部氏が秀吉に敗れ、
新しく家臣に加わったばかりで非常に弱い立場にあったからである。
いつ秀吉が心変わりして土佐を没収されるかわからないそんな状況で、
少しでも秀吉に良く思われようと必死になるのは当然である。
だからこそ元親がいくら長男の出陣に不安を感じていても、
出陣を拒否することは出来なかったのである。
天正十四年(一五八六)九月、元親は信親とともに、
四国勢の一部隊として三千の軍勢を率いて出陣した。
今回の征伐の計画は豊前国に毛利氏を中心とする中国勢を、
豊後国には長宗我部氏を中心とする四国勢を侵入させて秀吉の出撃準備が整うまでの間、
大友氏を支援し時間を稼ぐというものであった。
いまだ信用されていない外様大名のそれぞれの軍には豊臣氏のお目付け役として軍監がつけられ、
中国勢には黒田孝高、
四国勢には仙石秀久がその役を果すことになったのである。
[戸次川の戦い・前半戦]
九州に上陸を果たした秀吉の九州平定軍の先方部隊(仙石・十河・長宗我部)は大友宗麟軍と合流し、
大友軍の城を攻略中の島津家久隊に対しての行動方針を決めるため軍議を行った。
ところが、
この3人は先の四国平定の時には敵同士であったため互いに意見を譲らず、
なかなかまとまらなかった様である。
軍監の仙石秀久は、
城の攻略に夢中な島津勢は油断しているだろうと考え、
この隙に全軍で戸次川を渡り攻めかかれば勝てるだろうと、
「渡河」を主張した。
これに長宗我部元親は島津勢のほうがこちらより兵力が多いから、
川岸で部隊を足止めして援軍が来るのを待ったほうが良いと考え、
「川で対峙」を進言した。
一方、十河存保は元親と同じく兵力に劣っている点を挙げたが、
川まで行かずここで援軍を待とうと「待機」主張した。
一向にまとまらない話し合いに業を煮やした仙石秀久は自分の部隊だけで川を渡って戦うと言い出したため、
元親と存保もやむなくこれに賛同することになり、
軍議は「戸次川の渡海」と決まったのである。
天正14年(1586)十二月十二日午前八時頃より作戦が始まり渡河が行われた。
仙石・十河隊2000人、長宗我部隊3000人が参加し、
後方に大友宗麟の子義統・戸次統常が予備隊として控えていた。
対する島津隊は4万に近い大軍であった。
島津隊は敵が川を渡るのを見計らって鉄砲を撃ちかけてきた、
川の移動中で身動きの取れない部隊はたちまち討ち取られてしまい、
川は血に染まったという。
続いて本隊も渡河を始めると、
控えていた島津勢は一気に攻めかかってきた。
数の上で圧倒的に不利な平定軍はあちらこちらで島津勢に撃破されていった。
長宗我部元親・信親の陣にも新納大膳亮の部隊約5000人が攻めかかりその混乱の中、
親子は離れ離れになってしまったのである。
信親を元親は懸命に探したようだが敵味方入り乱れている戦場で人を探すのは困難であった。
敵に取り囲まれた元親はその場で自害しようとしたが家臣の説得と愛馬の帰還してくるのを見て急ぎ撤退した。
谷忠兵衛以下20名ほどになってしまった元親一行は伊予国日振島を経由して土佐に帰ったという。