秀吉出馬・四国征伐

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[秀吉の攻勢]
 天正13年(1585)3月、

小牧・長久手の戦いを終えた羽柴秀吉はこの戦いで自分に敵対した国々に圧力を加え、

武力によって平定していくようになる。

その第一歩としてまず攻め込んだのは鉄砲隊で有名な根来雑賀の和泉・紀伊2ヶ国であった。

これが世に言う「紀州征伐」である。
3月から始まり2ヶ月あまりでこれらの国々を平定した秀吉は次の目標を四国に向けた。

当時四国では長宗我部元親が伊予・河野氏を降して四国統一が終了したばかりであった。

[長宗我部征討]
元親は小牧・長久手の戦いに関して直接的な軍事介入はしなかったが、

反秀吉同盟の一角としての立場をとっていたため、

織田信雄・徳川家康と対峙している秀吉の背後を常に脅かしており、

秀吉方への精神的圧力としての効果はそれなりにあったと考えられる。

そのためか秀吉は以前から長宗我部征討を考えていたらしく、

4月中旬には四国出兵のための兵を整備し始め、

自ら四国へ渡って指揮を執るつもりであったという。

ところが、運悪く病にかかり秀吉は弟・秀長に四国征伐を任せることにしたのである。

[交渉決裂]
一方、元親は小牧・長久手が終了すると、

秀吉の四国征伐を警戒してたびたび使者を送り戦いを回避しようとしていた。

だが、他方では領内の城郭を整備し来るべき戦いに備えて対応策を講じていたのである。
 話し合いの結果、秀吉方は和睦の条件として「伊予と讃岐の返上」を要求したが、

元親はこれまで多くの家臣が傷つきながら、ようやく手にした土地を返上するのは忍びなく思い、

「伊予のみの返上」にしか応じられないと返答したため、

両者の話し合いは平行線のまま決裂し、

10万の軍勢による四国征伐が決定されたのである。

 
四国征伐、秀吉軍侵攻図

[3方からの上陸] 
秀吉による四国上陸は上の図の通りであった。
天正13年6月、秀吉の命をうけた羽柴秀長は
3万の軍勢を率いて堺から淡路島に上陸し、

明石から上陸してきた羽柴(三好)秀次軍3万と合流したのち、阿波・土佐泊(とさどまり)へ上陸した。
備前・美作の宇喜多秀家と播磨の黒田孝高および蜂須賀正勝・家政父子は連合して
約2万の軍勢を組み、

播磨から讃岐・屋島に上陸を開始し、周囲の城を落として牟礼から高松にかけて陣を敷いた。
また、このころ秀吉に臣従したばかりである毛利氏もこの戦いに参加しており、

備後国三原に本営を置いた毛利輝元は小早川隆景と吉川元長に約3万の兵をつけ、

来島通総の先導によって伊予北部に上陸させた。
阿波国白地に本営を置いた元親はこれら敵による3方からの侵攻に兵力を分散して対抗しようとしたが、

兵力の劣る長宗我部氏にとっては初めから苦しい戦いを強いられることになったのである。

[長宗我部軍の防衛体制]
天正13年(1585)6月、元親は来るべき秀吉軍との対決に備えて阿波・伊予・讃岐の3方面に総勢4万ともいわれる軍勢を集めていた。

特に阿波には敵の主力が攻め込んでくる可能性が高いので

ここに主力を集中することにしたのである。
最も淡路島と接している
前線拠点・木津城には久武内蔵助の娘婿で「武道つよき者」といわれた東条関兵衛を配置し

その南にある渭山(徳島)城には吉田康俊を置くことにした。

ほかにも一宮城に谷忠澄・江村親俊牛岐城に弟の香宗我部親泰岩倉城にも一門衆の勇将・比江山親興をそれぞれ守りにつかせ、

元親自身も8000人余りの軍勢を率いて白地城に入り、

戦況の変化に応じて土佐から援軍を出せるよう準備を整えたのであった。

[小早川・吉川勢 対 東伊予勢]
 東伊予の地域は中世以来、

 東の細川氏と西の河野氏の抗争の舞台となっていたが、

 細川氏の勢力化に入った後は代官の石川氏とその配下である金子氏によって統治されるようになった。
 特に金子・高尾の両城を統率する
金子元宅は長宗我部元親との間に同盟を結び、

 また、治政・築城・用兵のいずれにも優れた勇将であったといわれている。
 小早川隆景率いる3万の軍勢は東伊予勢の予想以上の防御力の硬さに正面からの上陸をあきらめたが、

 迂回コースをとって6月末ごろから7月はじめにかけて上陸し、

 金子・石川氏と激戦を展開した。

 戦いは兵力に勝る小早川勢に有利に展開し、

 御代島城を皮切りに7月14日には元宅の弟が守る金子城が落城し、

 翌日、小早川勢は元宅が守る高尾城に押し寄せた。

 城兵は多勢に無勢ながら2日間にわたって抵抗を続けたものの、

 やがて高尾城も落城。

 金子元宅は残兵を集めて最後の切込みを行うも、

 力尽き、屠腹して果てた。
 石川虎千代が守る高峠城も翌18日には落ち、

 城兵のほとんどが全滅した。

 8歳の虎千代は家臣に守られて土佐に落ち延びたという。
 また、金子城の戦いでは元親の命を受け援軍として駆けつけた花房新兵衛・片岡光綱らも戦死している。
 東伊予の重要拠点を落とした
小早川勢は21日ごろ、

 元親の本拠地である白地城の目前まで軍を進めることに成功する。

[讃岐での戦い]
 播磨方面から讃岐国・屋島に上陸した宇喜多秀家、黒田孝高(如水)、蜂須賀正勝らの軍勢は高松および牟礼周辺を制圧したのち、

 さらに南の喜岡城(古高松)へ向かった。
 喜岡(きこう)城主は高松頼邑(たかまつ・よりむら)で、

 およそ200人余りが守っていたが、

 黒田孝高の山から切り出した木で堀を埋める作戦に加えて2万人を超える豊臣勢の大軍の前にひとたまりもなく全滅してしまう。
 この圧倒的な戦力を見せつけられた香西城主・香西伊賀守もまもなく降伏し、

 讃岐北部の戦いは次第に豊臣方に優位なものとなっていったのである。
 しかし、讃岐での
長宗我部軍の作戦は南部に新しく築いた植田城へ、敵をおびき出して十分にひきつけてから、

 白地より元親本隊が駆けつけて夜間に挟み撃ちをかけて敵を全滅させようとするものだった。

 そのため、植田城には一門の長宗我部(戸波)親武を元親の名代として入れ、

 さらに元親が信頼する兵を配置したり、

 敵をおびき寄せるための囮の城や砦までも築かせているのである。

 守備兵力は総勢2500人で、

 元親本隊が8000人ということから考えると結構な人数であることがわかる。

 それは元親が讃岐の拠点の中で特にこの城を重視していたという証拠だろう。
 北部をはぼ制圧した宇喜多・黒田勢は5000の軍を率いて植田城へ進撃を開始した。

 途中にあった城や砦を次々に落としながら、

 逃げる兵を追って植田城に接近していった。

 しかし、黒田孝高は植田の地形を検分すると、

 すぐに引き上げるように命じてさっさと退却してしまったのである。

 本営に戻った孝高は諸将を前に「東国の敵を聞くに、はかばかしき者はなし。

 国中の痩せ城どもを攻め落としたりとも其功に立つべからず。

 長曾我部は阿州に居ることなれば先づ阿州へ行き、

 大和秀長に対談し土佐方の兵を攻め撃つべし。

 阿州の敵落居すれば讃州の敵は戦わずして分散す。

 無用なところに力を尽くし戦をなしても益なし」(『南海通記』)と言った。

 要するに、こんな所で戦っているよりも、

 阿波の軍に合流して元親を直接攻めたほうが良い。

 と意見したので全員これに賛成し、

 讃岐の軍勢は阿波へ進撃を開始することになったのである。
 植田で豊臣方に大打撃を与えようとした元親の作戦は黒田孝高によって見破られたため、

 失敗し、

 また、その讃岐の軍勢が阿波に攻め込んだことによって長宗我部軍の戦況はさらに悪化していくのである。

[阿波最終戦]
 淡路で合流した羽柴秀長と羽柴(三好)秀次の本隊は6万の軍勢で鳴門海峡を渡り土佐泊に上陸した。

 東条関兵衛が守る木津城は入海や川、山に阻まれ大軍をもってしても、

 その攻略は容易ではなかったが、

 水源を断たれると次第に崩れ始め多くの戦死者を出した。

 秀長軍に加わっていた叔父の説得を受けたこともあり、

 関兵衛は降伏して木津城を明け渡し、

 さらに土佐までの先導役を務める。

 これに怒った元親は土佐に戻った関兵衛を殺させたうえ、

 白地にいた弟も殺させた。
 7月15日、

 讃岐攻略を終えて南下してきた宇喜多・黒田勢2万を加えた羽柴軍は部隊を3つ(一宮方面軍・岩倉方面軍・海部方面軍)に分け、

 総攻撃を開始した。

 すでに伊予での苦戦、

 讃岐での敗戦が伝えられている長宗我部軍としては、

 ここでなんとか持ちこたえなければならなかったので、

 羽柴軍の攻撃に対しどの城も容易には落ちなかった。
 しかし、戦況の不利を感じた弟・香宗我部親泰が土佐へ引き上げてしまうと、

 城を守っていた吉田康俊もつづいて撤退し、

 早々に阿波の東岸部を失ってしまった。

 この逃亡は外交を通じて羽柴軍の勢力の違いを見せつけられていた親泰が、

 元親にこの戦闘の無益さを伝えるために行ったともいわれている

 とはいえ長宗我部軍の阿波決戦はこの行動で大きく揺らいでいくことになったのである。

[元親、降伏する]
 四国での戦いは日ごとに長宗我部氏に悪くなっていた。

 元親が開戦当初から計画していた防衛作戦は7月中頃までには、

 ほとんど崩壊したといっていい状況となり、

 一宮城を守っていた谷忠澄はこれを見て元親の説得を決意し、

 羽柴軍が出してきた和睦に応じるように求めたのである。
 忠澄は元親のもとに
「上方の軍兵は富み栄えたること、四国の相対すべきことにあらず。四国は二十年の兵乱によりて、民屋を放火し、村里を打破り、

(中略)五年三年の間には耕作農業も整はずして、五穀充満することもなからん。

 民疲れ諸卒倦て、

 兵具馬具も切れ腐りてかかりたる物もなし。

 田牛行馬も痩せ衰えて、

 上方は武具馬具綺麗にして光り輝き、

 金銀をちりばめ、

 馬は大長にして眉上がるが如し。

 武者は指小旗を背にきつとさしていかめしき躰なり。

 四国は十人が七人は土佐駒にのり、

 曲がり鞍を敷き、

 木鐙(あぶみ)をかけたり。

 武者は鎧毛切れ腐りて麻糸を以て綴り集めて着し、

 腰小旗を横たばりに指して上方の武者には似るべくもなし。

 国に兵糧乏しくして上方と永く取り合ふべき用意もなし。

 彼我の甲乙を考ふるに、十に一つも相対すべきことなし。」(『南海通記』)と申し送り、

 長宗我部軍の装備と豊臣軍の装備の違いと現在の四国の状況を説明して、

 とても勝ち目がないと説得をしたのである。

 これを聞いた元親は「西国にて名を知られたる元親が、一戦もせず闇々無事に引き退ることは、屍の上の恥辱である。

 忠兵衛(忠澄)がそれほどの不覚者とは思わず、

 一宮城を其の方に預けたるこそ落度であった。」と忠澄に切腹を命じたが、

 日ごとに悪化する戦況と忠澄の必死の説得に元親もついに和睦交渉に応じることを認めたのである。
 

 天正13年(1585)7月25日に行われた交渉の結果、

 長宗我部氏は阿波・伊予・讃岐の3ヶ国を失い土佐国のみ安堵されることになったのである。

 元親をはじめとする各地の長宗我部軍は城を羽柴軍に明け渡して土佐へ帰国した。

 土佐統一からちょうど10年目におきたこの出来事は四国の全土を荒廃させ、

 多くの人命と時間を犠牲にしながらようやく切り取った3ヶ国をすべて失った瞬間であり、

 まさに長宗我部氏にとっての「失われた10年」となったのである。


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